「今夜はもう一軒寄ってみようか」
夏も終わると、街もまた落ち着いていく。飲食店のある界隈も、秋に向けて再起動していくようだ。
Wさんは、辺りを見回しながらそんなことを考えていた。仕事の会食があり、めいめいが家に帰る。かつてのように二軒目に行くことは殆どなくなった。Wさんと同じ方面に帰る人はいなかったので、1人で地下鉄の駅に向かう。
会社からほど近いこの界隈には、若い頃からよく飲みに行っていた。どの先輩も、行きつけの店を持っていて、それがまた憧れだった。
やがて、退職する頃には「おまえ、よろしくな」と言われ、その後、常連として通った店もある。あれは業務以上に大切な「引き継ぎ」だった。
ところが、もうそういう店は殆どなくなった。一軒だけ古いバーが残っているが、店を閉じるのももう近いだろう。
どの店も、店主が高齢になった。景気がパッとしない中、いずれも会社員にやさしい値付けの店だった。それでも、齢には勝てない。
入れ替わりでオープンする店はチェーン系だったり、1人では入りにくい雰囲気だったりする。
とはいえ、これから新しい店を開拓するというのも、さすがに面倒になってきた。Wさんも50代になって、ついつい先を考える。子育ても落ち着き、生活自体に大きな不安はないけれど、1人で飲むのにあまりカネを使うのも気が引けるのだ。
そして、自宅近くのコンビニで「家飲み」の地ビールを買って帰路に就くことが多くなっていた。
でも、今夜はもう一軒寄ってみようかとWさんは思っている。
同期が見つけた穴場
Wさんが最近その店に寄るようになったきっかけは、少し前に同期のQさんと再会したことがきっかけだった。仕事のプロジェクトで顔を合わせることになり、その後で、帰り道が一緒になったのだ。
WさんとQさんの自宅は、同じ沿線だった。Wさんは、川を渡って隣の県に暮らしているが、Qさんは少し手前の都区内である。久しぶりに会ったこともあり、自然と「メシでも」ということになった。
「せっかくだから、家の近くにいい店があるからどう?」
Qさんの誘いに、Wさんは喜んで乗った。途中下車をすればいいわけだし、帰るのも楽だ。連れて行かれたのは、こじんまりとしたカジュアルな店で、グラスワインや小皿の料理がどれもおいしい。
どうやら店の主人とは顔見知りのようで、一緒にいるWさんにとっても居心地がよかった。パスタも食べてお腹いっぱいになっても、決して高くはない。
周りを見ると、客層はさまざまだった。住宅街の駅で、学生もいるようだ。かと思うと、結構年配の客が1人で来ていたりもする。
(ああ、なんかいいな……)
かつての行きつけだった店のような、しっとりした感じがあるわけではない。でも、いろいろな人が楽しそうにしている空間にいるだけで、いい気分になる。そして、いわゆる「憂さを晴らす」ような淀んだ空気がない。
Wさん宅の最寄駅の周りは、ファーストフードやチェーンの居酒屋を除くと、あとは古くからある小料理屋かスナックくらいしかない。
ところが、Qさんに聞くと「まだ、いろいろあるよ」という。今日降りた、Qさん宅の最寄駅以外でも、いろいろと寄り道しているという。
「じゃあ、今度は隣の駅で」
そんな約束をして、別れた。その後も、いろいろと教えてもらったのだが、どこもいい店だった。そして、そのうちの一軒がWさんの行きつけになったのだ。
「行きつけ」を楽しむ3つの条件
Qさんは、いったいどうして、そんなに店を開拓したのだろうか?話を聞いてみると、Wさんと同じように、自分の居場所がなくなっていく寂しさを感じていたらしい。50代ともなると、会社での役割は一歩引いたものになり、子育てがひと段落ついた家庭でもその存在感は少しずつ薄れていく。
Qさんの最寄駅近辺は、Wさんの家よりも都心に近かったこともあり、それなりの飲食店がもともとあった。そして、古い店が閉まっても、若い人のチャレンジによる、新たな店が生まれていた。都心部よりも賃料が安く、スタートするには手頃な地域なのだ。
そうした店に、ふらりと入り始めたのだという。
若い人による新しい店に、段々と客がついて来るようになる。すると、相乗効果で周辺や隣駅も元気になっているという。
「いい隠れ家を知ってるね」とWさんが言うと、「実は隠れてもいないんだけどね」と言って、店選びと店の使い方のコツを教えてくれた。
まずは、店主が自分より若いこと。いままで通っていた店がなくなっていく理由は、店主が自分より年上だったから。たしかに、明快だなとWさんは納得した。
そして、「上限」を決めること。時間と使うお金を、あらかじめ決めておくという。その方が、かえって店での居心地もいいという。たしかに、長い時間居座って深酒すればするほど、気分転換につながるというものではない。実際、連れて行ってもらった店は全体的に回転が速く、ダラダラ飲む客は少なかった。
「さすがに毎回定時・定額じゃないけどね」とQさんは笑う。
さらに、幾つかの店は家族とも行くらしい。「隠れ家じゃなくてオープンにしちゃうんだよ。『あの店に行った』と言えば、かえって納得されやすいし」
Qさんのひとり娘はまだ10代だけど、ソフトドリンクで食事ができるような店もあって、同じような家族連れの客も週末には多いそうだ。ただ、最近見つけた焼き鳥屋は、「成人してからの楽しみに取っておこうか」と言っていた。
そして、「会社に近すぎない」のはもちろんだけどね、とQさんは付け加えた。それも、たしかに納得できる。
「年下の店主」「時間とカネの上限設定」「家族にオープン」
たしかに、それらは大切かもしれないとWさんは感じた。なにも、いまさらどこかに隠れて夜を過ごしたいわけではない。
なにより、会社と自宅の間に、こうした空間があることは、本当に大事なんだと改めて思ったという。
昔は床屋も「サードプレイス」だった
ミドル世代で、Wさんのように感じている人は結構いるのではないだろうか。
会社にいる時間は相当長くて、平日の家は「寝るだけ」という人も多いだろう。また、子どもが大きくなると、一緒に外食することも減っていく。毎日が職場と家庭の往復で、たまの飲食はつき合いばかり。その上、行きつけの店まで減っていくと、日々の生活の中で「一息つける」場のようなものがなくなる。
これは、ちょっともったいないように思う。40代から50代の「大人の時間」の魅力や必要性はメディアではよく語られるものの、実際には失われ続けているのかもしれない。
サードプレイスという言葉がある。スターバックスのコンセプトとしても知られ、職場と家庭以外の「3つ目の場所」ということだ。
ただこれは、何も目新しい概念ではない。WさんやQさんが若い頃、先輩たちにに連れて行ってもらった店もそうだし、昔の床屋もある面、そういう場所だった。
ちなみに、床屋の喧騒を描いた「浮世床」という落語は、江戸時代の作である。サードプレイスといった新しい言葉を耳にするずっと以前から、日本人はそういった居場所をちゃんと持っていたのだ。
こうした居場所を見つけておくことは、ミドル世代にとって結構重要になってきていると思う。
仮に65歳まで働くとしても、多くの人は少しずつ第一線を退くようになり、仕事に費やす時間は減っていく。自宅の近くで過ごす時間が、コンビニと図書館だけというのでは、ちょっと寂しい。
会社中心の生活を段々と変えていくための準備は、そろそろ始めてもいいはずだ。
「冗長性」の大切さ
また、会社の帰りにリフレッシュしたり休日にくつろげる場所を持っていることは、いまの仕事にもプラスに働くだろう。それは、生活の中に「冗長性」を取り入れているようなものだ。
「冗長性」とは、システム設計の世界で使われたりする言葉で、非常に大ざっぱにいうと、必要最低限のものに加えて余分や重複がある状態を指す。これにより、結果的に機能の安定化を図ることができる。
かつての先輩たちが、行きつけの店に立ち寄っていたのは、日常生活の安定のための、ちゃんとしたストレス・コントロールだったのだろう。
すっかり、沿線の店が気に行ったWさんは、次の週末は、妻に声を掛けて新しい店を「案内」しようかと思っている。そのうち、Qさん夫妻と食事をするのもいいだろう。
そして、もし子どもが独立したら、妻と二人でもう少し都心の街に引っ越してもいいかもしれない。
そんな空想が、いろいろと広がる。そして、そうした空想こそが、最近なかったんだな、ということにも改めて気づいたのだった。
■今回の棚卸し
「帰りに一杯」というのは、いかにも昭和の風習のようにみられて、ちょっと旗色が悪い。しかし、寄り道先であり、一息つくことができる「第三の場所」は、今も昔もとても貴重な空間だ。
仕事でも家庭でも一つの節目を迎え、その“立ち位置”に変化が生じがちなミドル世代こそ、将来の生活を見据えて自分の場所を探しておくことが大切だ。日常生活は、効率一辺倒では息が詰まる。変化に合わせ、「冗長性」を取り入れることもまた必要だろう。そのための「穴場」は、意外と身近にあるかもしれない。
■ちょっとしたお薦め
食を描いたエッセイと言えば、池波正太郎の「食卓の情景」が白眉だろう。最近のグルメ批評とは全く異なる、「生きて行く中での食」が鮮やかに描かれている。
余計なことを書くと野暮になるので控えるが、日本のあらゆるエッセイの中でも、輝きを放つ1冊ではないだろうか。未読の人には是非お勧めしたいし、既に読んだ方も改めて手に取ってみてほしい。再読でもまた新たな発見があり、味わいは尽きない。「店にちょっと立ち寄りたい」気持ちになるだろう。
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