この仕事は、J君くらいの歳まわりの人事社員が1名選ばれるが、それは若いうちに「会社の裏」を見せておくという意味合いもある。もちろん口が堅いことは必須条件だ。
J君は、人事部長の眼にかなったのである。
だから、部長の言葉は嬉しかったものの、身が引き締まる思いだった。
「じゃあ、しっかりやってくれよ」
そう言い残して、部長が早々に退出したあとに、Zさんが改めてJ君に話をした。彼も若いうちに基幹人事を担当して、いまは人事部のキーマンだ。
彼が、まず言ったのは妙な一言だった。
「まあ、この仕事では『犬』のようになってもらうんだよ」
不思議そうな顔をするJ君に、Zさんは説明を始めた。
まず、現場の部長や役員との打ち合わせには、すべてついて来い。ただし、一切口を出さないでいい。しかも「何のことかわかりません」という顔をしていろ。
妙に探りを入れるようなメールをしてくることもあるから、そういう場合は返信しないですぐにこちらに言え。つまり、異常が察知したらすぐ吠える。
「つまり、犬のようなもんだ。しかも、十分に鍛えられた」
フォローになっているような、ならないような感じだったが、J君は気を引き締めた。
採用にも口を出す役員のゴリ押し
その年は社長交代もなく、役員もあまり動きはなかった。比較的無風で進んでいくはずの基幹人事だったが、営業担当の役員が妙なことを言いだした。
Sさんを部長にしたいというのだ。取引先別に何人もいる営業部長の1人に、と考えているようだが、誰もが「なぜ?」と思った。
役員の意向は人事部長を通じて、事前に知らされていた。Zさんは役員室へ行った。真意を探る必要があったのだ。J君も同行した。
査定だけでいえば、もっと評価の高い者もいる。Sさんはコツコツと働く努力家ではあるが、課長としてはともかく「部長の器」という感じはしない。それは、若いJ君も感じていた。
「だから、ああいうヤツこそ部長にしたいんだよ。『あの人もなれるんだ』ってことで、ほら、まわりのやる気が出るってこともあるじゃないか」
それが、役員の論理だった。わかったような、わからないような話である。とりあえず、人事部に持ち帰って部長に伝えることになった。
Zさんは一瞬迷ったような表情になり、J君に言った。
「……お前も、来い」
部屋に入ると、いつも温厚な部長が険しい顔をしていた。
「見えたよ」
再度役員とも話し、いろいろと情報を集めているうちに「真意」がわかったのだという。
実は、Sさんは縁故入社だった。もう、四半世紀以上も前の話でもあるが、現在も大切な取引先の1つである。そして、今回のゴリ押しをする役員は、新人採用の時も無理を言って取引先がらみの縁故入社を押し込んでくることでも有名だった。
ある程度までは人事も対応するが、近年はもめることも多く、それはJ君の耳にも入っていた。つまり、人事部長にとっては「宿敵」でもあったのだ。
「つまり、採用の口利きが決して間違ってないって言いたいんだろ。そうやって自分を正当化したいんだよ」
部長は、あきれたように言った。
「通すならそれでもいいけど、後でどうなっても知らねえぞ」
聞いたこともないべらんめえ口調の部長の前でも、J君は「犬」に徹していた。
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