ついに決まった新社長
「やはり“家康”になったか……」
Xさんはひとり、深くうなずいた。すでにリタイアして60代後半ではあるが、かつて働いた会社の今回の社長交代には、とりわけ感慨深いものがある。
執行役員まで務めて、すべての役職を退いてからはまだ3年ほどだ。いやでも、会社の情報はいろいろと入ってくる。そして、ここ最近は「次期社長」をめぐる話が、OBなどの間でも話題になっていた。
その会社は、産業材のB to Bを手掛ける伝統的な企業だった。Xさんは営業畑の出身で、今回の社長候補全員と、キャリアの中で何らかのかかわりがあった。そして、誰ともなく、ほぼ同年代の有力候補3人を、「信長」「秀吉」「家康」と呼ぶようになっていた。
そして、今回社長になったのは「家康」だ。「信長」、「秀吉」との勝敗を分けた「Y字路」はどこにあったのだろうか。Xさんには、「やはりあの時」という分かれ目が、クッキリと見える。
そして、キャリアをめぐる3人のドラマを改めて思い起こすのだ。
より上を目指した「信長」の限界
「信長」は、営業部門で頭角を現した。
主に担当してきたのは、決して大きくない取引先や新規開拓だった。しかし、老舗の会社がバブル崩壊後にも成長してきたのは、「信長」の功績といってもいい。
歴史がある会社だけに、取引先にも古い体質の企業が多い。そして発注も先細る中で、「信長」は新たな鉱脈を掘り当てた。いささか強引なところがあるけれど、数字がついてくるだけにあまり文句は言えない。
ただし、部下からの評判は相当に割れていた。面倒見はいいし、慕うものは徹底的についていく。しかし、好き嫌いも激しいために、去っていくものも多かった。
「信長」は40代後半で役員になり、やがて営業部門統括に抜擢された。今の社長は技術畑だったこともあり、「次」の大本命と目された。
しかし、そこで「事件」が起きた。
社にとって、古くからの得意先、つまり「信長」とは比較的縁の遠い企業がクレームを入れてきたのだ。単純に言えば「うちは後回しにされているんじゃないか」という話である。
「信長」の開拓した伸び盛りの取引先への納入を優先しているように思えたのだろう。しかし、それはもはや全社の方針でもあったのだ。
ところが、この話は予想外にこじれた。昔からの付き合いを守ろうとする古参の役員がいろいろと口をはさんでくる。そして「信長」は、“信長”らしくなくあっさり折れた。しかも、自らが育てた得意先に出向くこともなく、社内調整で決着させたのだ。
これには、かつての部下も反発した。
しかし、「信長」は既に、全社営業を統括する立場にあった。さらに「上」を意識した時点で、バランス感覚が働いたのだろう。しかし、この一件を境にして「信長」を見る周囲の目は変わった。専務に昇格したけれど、あまり人がよりついてこない。
“信長”らしさとともに、かつての勢いも失った。
情報を握った「秀吉」への社長の不信
一方で、「秀吉」のキャリアは少し変わっていた。もともと経理畑だったが、途中から営業に転じた。あまり目立たないタイプだったが、コツコツと結果を出していき、業績が頭打ちだったとある支社を立て直したことで注目された。
徹底的に無駄を見直した成果が買われて本社で役員に昇格し、経営企画室長になった。このポストもまた、トップへの有力なキャリアパスである。社長直轄の部門で気配りを見せる様子は、まさに「秀吉」のようだった。
ところが、「秀吉」はやがて社長からの不信を招くことになる。
当時の社内では、生産能力の増強が最大の課題だった。しかし、先行きが不透明な中で、単に工場の増設を行う投資はリスクが高い。そこで、他社との提携や合弁、あるいはM&Aなどが検討されていた。
そうした情報は、すべて「秀吉」の下に集まっており、それなりに「筋がいい」と感じた案件のみを社長に上げていた。ところが、見切った案件の情報が、社長の耳に入った。金融機関を通じての「また聞き」のようなものだったが、このことが社長には引っかかった。
「本当に大切な情報を上げているのか?」
一度生じた溝はなかなか埋まらない。それ以来、「秀吉」にもどこか停滞感が漂うようになった。そうした中で、社長は「次」への布石を着々と打っていた。
気がづけば「家康」がいた
2人が足踏みする中、「家康」は、気が付くと彼らのすぐ背後に位置していた。
新入社員では支社営業でスタートして、本社に戻ってからは人事畑も経験した「家康」だが、その後はグループ会社に出向していた。それなりに人望はあっても、派手さのないキャラクターだ。
50歳を前に、社長から呼び戻されてついた役職は「営業企画室長」だった。社内調整が多く、あまりハッキリしない役どころではあるが、「信長」をけん制する狙いが社長にはあったようだ。
そして、「信長」絡みの一件の後で、「家康」の役割はずっしりと重くなった。営業戦略をめぐる社内調整を任されたのだ。さらにその後、「新規事業企画室」という組織が新設され、そちらも兼任することとなった。
つまり、新規事業や投資案件についての判断は、「秀吉」の管掌から切り離されたのだ。結果的に、先行していた2人のつまづきを「家康」はしっかりと拾い切ったのである。
役員就任から2年で常務になり、そこから一気に社長昇格だ。少し前までは、誰もが予想していなかったトップ人事だった。
ゴール直前の「新たなスタート」がもたらす陶酔
Xさんは、そうした経緯をすべて思い起こした。そして、改めて思う。
「結局、勘違いしないやつがトップになったんだ」
先行していたように思われた「信長」や「秀吉」はどこでつまづいたのか。それは、「若返り」の機運の中で舞い上がったからだろう。それが、Xさんからはクッキリと見えるのだ。
現社長の在任期間は10年以上になる。しかし、権力に執着して居座っていたわけではない。厳しい環境で経営の舵取りをおこない、金融危機や震災からの立ち直りに腐心する間に交代のタイミングを逸してしまったのだ。
そのために、「次は大きく若返りを」という気持ちが強く、それは役員人事にも表れた。有力候補の3人はみな50歳を前にして役員となっていたが、それ自体が異例のことだった。どこか、浮かれてしまうのも無理はない。
しかし、その「陶酔」が足元を見失う一因ともなり3人の運命を分けたのだろう。意外に思われた人事も、決まってみれば納得できるものだった。
人事の発表からしばらくが経って、Xさんは退任する社長の慰労会に出席した。苦楽を共にしたOBだけが集った気の置けない仲間たちの会だ。
話題の中心は、とりとめのない昔話だったが、ふと後任人事の話になった時に社長が一言口にした。
「いろんな仕事を任せてみたけど、あいつは変わらないんだよ」
周りの者は、一瞬シンと静まり返って社長の言葉に耳を傾けた。
「部下にも威張らないし、納品先にも穏やかで、私にも冷静に話す。自分の意見はしっかりと持っているが、わからない時には、必ず周りの意見を整理している。そういう“当たり前”のやつを待っていただけなんだが、意外と時間がかかってしまった」
それ以降、後任についての話は出なかった。
本物の徳川家康がどんな男だったのかは誰にもわからない。でも、今度、家康が登場する小説でも読んでみようかと、Xさんは改めて思った。
■今回の棚卸し
会社員生活の勝利者に見える役員たちも、実は無数のY字路で立ち止まり、迷い、そして時には道を誤る。若くして昇進したからこそ、浮足立って先だけを見てしまい、足元の小石に躓く。
変わらずに振る舞う。言葉で言うのは簡単だが、それを実行し続けられる人は少ない。地位が高くなっても、信頼を得る人の行動原理は変わらないのである。
■ちょっとしたお薦め
戦国時代を描いた小説は多いし、信長・秀吉・家康を扱った作品は傑作の森のようなものだ。
今回の主人公である家康を取り上げたものでは、山岡荘八の「徳川家康」が有名だが、何せ全26巻である。司馬遼太郎の「覇王の家」も世評が高いが、変化球として楽しめるのが「影武者徳川家康」だ。関が原における“if”をテーマにした傑作だが、その後の歴史を巧みに取り込んでおり、小説のだいご味が味わえる作品である。
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