目の前で涙を浮かべる30歳の部下
その夜、Uさんは相当困っていた。部下を食事に誘ったのはいいが、話が段々と湿っぽくなってきて、挙句の果てに、目の前でうっすらと涙を浮かべ始めたのだ。
連れてきたG君は、30歳になる。学生時代から総合商社に憧れていた彼は希望通りの就職を果たし、Uさんの下でキャリアを積んできた。
仕事の進め方はスマートで、地頭がいい。学園祭の「ミスター・コンテスト」のファイナリストにも選ばれたというだけあって、ルックスも目立つ。人間関係にも苦労はなかったようで、コミュニケーション力も高い。
そんなわけで、取引先からも可愛がられていたのだが、ここ最近は明らかに伸び悩んでいた。
入社時に配属されてからずっと所属しているのは、東京本社のメディア・ビジネス関連の部署で、社の中でも歴史は浅い。服装は比較的自由で、資源関連に配属された同期などからは羨ましがられるような職場だ。上司もUさんをはじめとして、柔軟な発想の人が多く体育会的な感じではない。
そういう環境で伸び伸びとやってきたU君だが、最近はなかなか居場所がない。社外との日々のやり取りは、20代の若手がこなしている。その一方で、大きなプロジェクトを仕切るには力量不足だ。
Uさんから見れば、「ありがちなパターン」にも見える。一通りのことは器用にこなして周囲からも好かれるのだが、粘りや突っ込みはいま一つ足りない。いわば、センスだけで仕事を進めてきたのだ。似たようなタイプはUさんの同期にも何人かいた。そして、30代になった頃に、多くが壁に突き当たった。それを乗り越えられた者もいれば、足踏みしたままの者もいる。
Uさんは、G君の所属するグループのリーダーであり、評価者の立場だ。最近の様子を気にして食事に誘ったのだが、G君自体も自分のことはよく分かっていたようだ。
涙を浮かべてうつむいているG君にかける言葉を考えながら、Uさんはあたりにそっと目を配った。
(これじゃ、新手の痴話喧嘩にでも見えるんじゃないか……)
そんな妙な心配をよそに、G君は、グラスを見つめながら黙りこくってしまった。
もう一度、部下のセンスに賭ける
すっかり寡黙になったG君をなだめたり励ましたりしながら店を出て、Uさんは帰路についた。しかし、アタマの中では同じことを考え続けている。
(さて、G君をどうすればいいんだろうか?)
同期には、そろそろ海外赴任する者も増えている。しかし、G君の仕事は国内のビジネスが主だった。そんなこともあって、英語力もあまり伸びていない。
もう少し、厳しくしておくべきったかと今さら悔やんでも仕方がない。たしかに、今の部署は自由な半面、安易な道を選んでもどうにかやっていける部分がある。
1つの選択肢は、転勤させて、より自立を促すということだろう。ちょうど、人事からは「そろそろどうか?」と聞かれている。ただし、この場合は国内ということになりそうだ。
一方、現在のメディア関連の仕事は東京に集中する傾向にある。いま地方に行くことは、G君のキャリアにとって本当にいいことなのだろうか?
他のチームリーダーを見ていると、この位の年次の部下については、どんどん外に出している。
「だって、人事の言うことにいちいち意見していたら、こっちがマズいことになるでしょ」
全く悪びれずに、そんなことをいう者もいた。30代になった部下を「育てる」などということは、あまりアタマにないらしい。
それでも、Uさんにはこだわりがあった。G君には、まだまだ「伸びしろ」があるように感じたのだ。センスがあるのだからもう一度磨いてみよう。
その決断は、想像以上の変化をもたらした。
「ちょっと甘やかしてるんじゃないか」
Uさんは、G君の現在の仕事をすべて後輩に引き継がせた。その後に取り組ませたことは2つ。
1つは、始まったばかりの米国企業との提携プロジェクトの中核メンバーとして、徹底して企画と交渉の力を磨くこと。
もう1つは、英語力を伸ばすこと。仕事量を減らす代わりに、会社の自己啓発制度を使って勉強させることにしたのだ。
「ちょっと甘やかしてるんじゃないか」
そんな雑音が入ってきても、Uさんは動じなかった。
それというのも、Uさんは単にG君のことだけを考えたわけではないからだ。いまの仕事の担当を見直してみると、30代が手薄になっている。ある程度育ったところで、海外に赴任したり、異動になったりということが続いて、このままでは次代の人材が足りなくなる。自社のメディアビジネスの将来を考えた上での、布石でもあったのだ。
そして、G君はよく頑張った。黙々と仕事をこなして、段々と目つきが変わってくる。ある朝、めずらしく髪に寝癖がついていたので冷やかしたら、間もなく短く切ってきた。
「合コン誘っても、全然乗って来ないんですよ」
20代の若手がそんな呑気なことを言っている間に、プロジェクトも相当進行した。紆余曲折があったものの、一年余りが経ってプロジェクトは予定した以上の進展をみせて一段落した。広報室と連携してプレスリリースをまとめて、対外発表も終わった頃にUさんは異動の内示を受けた。
まったく予想していなかった、経営企画部に行くことになったのだ。
経営企画部に異動になった理由
Uさんは、入社以来現場のビジネス一筋で、いわゆるコーポレート部門の経験はない。しかも「経営企画」というのは、会社の中枢であり「別世界」のイメージがあった。
担当する仕事は、主に人材育成や働き方についての改革を考えることだ。部下たちも多士済済で、労務畑出身もいればMBAホルダーもいる。
ただ、このようなテーマは本来人事部の仕事ではないのだろうか?それが、内示を受けてUさんが真っ先に抱いた疑問だった。
赴任して1カ月が経ち、落ち着いた頃にUさんは担当の執行役員から食事に誘われた。いろいろ話しているうちに、Uさんの疑問を先回りするように、役員が言った。
「まあ、敢えて人事部には任せなかったんだよ」
そして、言葉を選ぶように続けた。
「どうしても、経験や知識が目を曇らせることがあるからね」
本人も人事部長の経験があるだけに、いろいろと思うところがあったのだろう。人事部の前例踏襲の発想では、いずれ行き詰ると考えてのことらしい。
そういえば、Uさんの会社から米国のネット企業に転職するケースも目立ってきた。しかも、相当若い企業へ思い切って飛び込んでいく20代もいる。このままでは、人材獲得競争に後れをとるという危機感が強いようだ。
そんな話をしているうちに、役員が思わぬことを口にした。
「そういえば、G君はよく頑張ったみたいだな」
ニコリともニヤリともつかない笑いを見た時に、Uさんは今回の異動の背景を理解した。G君に賭けたあのプロジェクトは、意外なところからも注目されていたのだろう。
あの店でも、G君はずっと笑顔だった
それから2年が経って、Uさんは経営企画で次々とプロジェクトを手掛けていった。想像もしなかったキャリアになったけれど、満足度は高い。
おもえばG君の涙が、その後の人生を決めたようなものだろう。
そして、ミドルのキャリアは、自分の頑張りだけでデザインできるものでもない。あの時G君に賭けて、それが実ったことでUさんの歩む道は変わった。それは、結果として後輩が拓いてくれたようなものだ。
「壁に当たったら、思い切って部下を信頼して任せてみる」
それが、いまのUさんの信条だ。
そして、G君は米国への赴任が決まった。折に触れて会ってはいたが、2人だけの送別会はあの日の店に行った。
もちろん、G君はずっと笑顔だった。
■今回の棚卸し
多くの企業において、若手の育成はミドルに課せられたミッションになっている。場合によっては、「義務」のようになっているケースも多い。
しかし、若手を育てることは自らの刺激になるとともに、組織全体の活性化にもつながる。
まだ力の足りない社員がいる時こそ、自分と組織の「足りないもの」を発見できるチャンスだと捉えたミドルこそが、次のキャリアを拓いていけるのだと思う。
■ちょっとしたお薦め
藤原伊織氏の「シリウスの道」は、広告会社を舞台にしたミステリー長篇だ。過去から連なる主人公の謎が小説の中核となるが、日々刻々と変化するビジネスの描写にも引き込まれる。
中でも若手社員の成長譚ともいうべきストーリーには引き込まれる人も多いのではないだろうか。「チームのストーリー」としても面白く読める一冊だ。
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