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仕事の基礎を叩き込まれた20代。上司の背中から学ぶ

日本橋店のリビングフロアでキャリアをスタートした

 今やトップランナーのひとりである安田さんだが、20代半ばのころは会社を辞めてしまおうかと悶々としていたという。

 当時の担当は日本橋高島屋のリビングフロア。高島屋は老舗らしく、重厚な一流メーカーの家具ばかりが並んでいた。ところが、来店客には新婚の若いカップルもいれば、カジュアルな感覚の若い世代も少なくない。「もっと明るく、小さな家具を扱ってはどうか」と上に提案しても、「そんなのは雑誌の世界の話だろう」「うちの顧客の好みではない」と退けられる。次第に「自分はここにいる意味があるのか」と思い詰め始めた。

 しかし、鬱々とする日はそう長くは続かなかった。上司が変わり「面白いじゃないか、やってみろよ」と背中を押された。少しずつチャレンジが始まる。さらに追い風となったのが、大卒女性の意見をもっと生かそうと「大卒女性プロジェクトチーム」が立ち上がったことだ。高島屋で大卒女性の採用が本格化したのは80年代に入ってからのこと、83年入社の安田さんにとっても大卒女性の先輩はごくわずかで、フロア全体を見渡しても数人しかいなかった。この女性たちにもっと活躍してもらおうというものだ。

 20代の大卒女性らは、アシスタントバイヤー、もしくはコーディネーターに次々抜擢された。コーディネーターは、店舗全体の販売計画の下、フロアごとに販売展開のテーマを定めて、企画を立て、新しい取引先を開拓しつつ品ぞろえをする、といった役割を担う。安田さんが任されたのは、家具売り場のコーディネーターだった。

 コーディネーターを務めた5年ほどの間、水を吸ってぐいぐい伸びていくように自身の成長を実感した。先進的で発想豊か、それを形にする力のある上司のもとで、仕事の進め方、世界の広げ方を見せてもらったという。

 あるときは、海外の家具情報をもとにフロア内に国ごとに5つのモデルルームを作った。フランスのコーナー、ミラノの部屋など。そしてフロア中央に世界の一流メーカーの椅子を集めたカフェを開いた。そこにインテリアの本を置き、家具の相談もできるようにした。先進的な企画をしたことがフロア全体の改装につながり、そして店内改装につながる。そうしたダイナミックな売り場の作り方を上司の背中から学んでいった。バブルに向かって右肩上がりに伸びていたころのこと、上昇気流にのり「とにかく面白かった」と振り返る。

新宿店立ち上げメンバー7人のうちの一人となる

 1992年、高島屋新宿店の準備室として7人が指名された。安田さんはそのうちの1人。係長だった安田さんは最年少で、お茶くみでもなんでもすることになる。今でこそ新宿南口周辺はおしゃれなウッドデッキが広がるが、当時は飲み捨てられたワンカップ酒の空き瓶が転がるようなところだった。オープンまで4年、さらに開店を迎えてまもなくマネジャーとなり5年、あしかけ9年にわたり、新宿店の立ち上げにかかわることになる。

 この時学んだことは「思いが強ければ、プロジェクトが形になるわけではない」という現実だ。経営トップが交代したことで、新店舗の方向性が変わり、戸惑ったこともある。下の人間としては芯になるものを見失わないようにしなければならない。上の方針を受け入れつつ、自分としては譲れないところは上手くプランに盛り込んでいく。一方で譲れるところは柔軟に対応する。こうして、何とか思い描いたリビングフロアを形にしていった。現実を見据えて組織のなかで折り合いをつけながら、譲れないものを形にする方法を身に付けたといえる。

 開店後まもなくマネジャーに昇進してからは、売り場の中間管理職としての苦労が待っていた。現場責任者として「マネジャー、これはどうするのですか」とことあるごとに、現場判断を求められる。高島屋の社員、パート社員、取引先からの派遣社員とさまざまな立場のスタッフ約100人を一つにまとめることに腐心した。コツは「とにかく裏で、一人ひとり向き合って話を聞くこと」だという。最初はひたすら傾聴に徹する。ただしすべてを受け入れるわけもいかない。ときには「だけど、こうだよね」と諭さなければいけない。38歳にして、多様な立場の社員100人をまとめあげることで、ダイバーシティマネジメントの力を磨いていった。

1カ月で7キロやせる。時には開き直りも必要と知る

 40歳を超え、本社スタッフに戻ったとき、思わぬ試練が待ち構えていた。日本橋店、玉川店の大型2店舗の改装を進める仕事につき、アイデア豊富な上司からの命を受けて社内調整をするなかで、心身ともにまいってしまったのだ。心労から眠れなくなり、食事をしても味が感じられなくなった。1カ月で7キロもやせてしまう。医師から薬を処方してもらい、何とか眠れるようになり思ったのは、ときには「開き直りも必要だ」ということだ。重要な仕事からもしも外されたら、と思い詰めて頑張ったところで、健康を害しては何もならない。体を壊してまでするべき仕事などない。激やせから得た教訓だ。

 奔走した結果、改装は成功し、売り上げアップにつながった。「私が成果を上げたわけではありません」と、あくまで謙虚である。手柄にするどころか、もっとうまく仕事をコントロールすればよかったと反省の弁まで語る。

 マネジャーになってからの戸惑いが最も強かったのは、45歳で部長になったときかもしれない。部長は現場に、進むべき方針を差し示す役割を担う。会社の経営陣が決めた方針を現場に伝えないといけないが、それが時には現場に負担をかけるものであったりする。会社からの文書を読み上げるだけでは、部下は納得しない。自分も腹落ちしないこともある。ではどうするか。部下のマネジャーらとよく話し合い、「ここだけはしっかりやろうよ」と合意形成をする。そうすると「部長がそこまでいうなら、やってみましょう」と意をくんでくれる。部下のマネジャーらは、どこか腑に落ちるものがないと動かないのだ。そのためには、「自分の言葉できちんと話す」ことが何より大切だと考えるに至った。自分の言葉で語ることで、部下の納得性が高まる、成果につながる、これが安田さんのマネジメント理論の核である。