海外店長も経験、現場主義貫き高島屋女性役員に
高島屋 執行役員 法人事業部長 安田洋子さん(58)
日本における女性リーダーの育成は先進国のなかで大きく遅れをとっている。企業内でどのような経験を積んだ女性が、役員に就いているのか。どのような「一皮むける経験」がリーダーシップを育むことにつながったのか。キャリアの軌跡をつぶさに辿ることで、企業内での女性リーダー育成のヒントを探る。 第10回目は、高島屋執行役員の安田洋子さん(58)。新宿高島屋の立ち上げを経験、その後、シンガポール高島屋、新宿高島屋、日本橋高島屋と基幹店を店長として率いてきた。ここまでの軌跡を辿ってみよう。
安田 洋子(やすだ・ようこ)
1960年生まれ。83年、高島屋に入社、リビングフロアの配属となる。90年係長昇進。92年に新宿店の準備室配属となり、最初の立ち上げメンバー7人のうちの一人となる。96年に新宿店が開店、98年マネジャーに昇進。足かけ9年新宿店の立ち上げにかかわった。その後本社勤務を経て、2005年に日本橋店紳士雑貨・婦人雑貨販売部長。09年に執行役員広報・IR室長、10年執行役員・人事部長。12年から3年間、タカシマヤシンガポール社長。15年執行役員・新宿店長、16年執行役員・日本橋店長、17年執行役員・法人事業部長。
シンガポール高島屋で年に一度開かれる懇親パーティでは、新任マネジャーが何か芸をするという習わしがある。2012年のパーティでのこと、マイケル・ジャクソンのアップテンポの曲に合わせて、本人さながらのいでたちでステップを踏みながら現れたのは、なんと店長の安田洋子さん。直前の店長挨拶を終えたあと、カツラを被っての登場と分かるや、会場の社員からはやんやの歓声が沸き起こった。
翌日、売り場を歩く安田さんは、現地社員から次々にポーンと肩をたたかれた。「昨日はよかったよ。なかなかやるじゃないか」と親愛を込めた挨拶だ。「現場に降りて話をする」ことが信条の安田さん。この一件で、現場社員の心を一気に引き付けたようだ。
シンガポールで思い起こした、高島屋の原点。
2012年、安田さんはタカシマヤシンガポールの社長、シンガポール高島屋の店長となり、スタッフ400人を率いることになった。
日本からの出向者はごくわずか、マレー系、中華系など様々なスタッフを率いるのはさぞ大変だったろうと聞くと「帰りたくないくらい楽しかった。シンガポールの人は人懐こくて」と笑う。いやいや、人懐こいのはどちらだろう。マイケル・ジャクソンの仮装の話をすると、日本でともに働いたかつての部下らは「さもありなん、安田さんらしい」と頷く。親しみやすいキャラクターで相手との距離を一気に縮めてしまう、どうやらそんなタイプらしい。
現地社員の人心掌握にも、安田流がみてとれる。ひとつは「相手をリスペクトすること」。赴任して間もなく設立20周年を迎えたシンガポール店には、安田さんと同年代の重鎮らが少なくなかった。自分たちがシンガポール高島屋を作り上げてきたという自負がある。そこで、彼らがこれまで積み上げてきたものに敬意を払い、継承することに努めたという。現地採用の幹部には、高島屋の経営状況をかみくだいて説明、日本の決算状況をグラフ化して示すなど工夫した。「オール高島屋のなかで、重要なポジションを占めることを丁寧に説明した」。英語で間違いのないようにと、事前に原稿もつくって説明の準備をしたという。
もうひとつは、自分の思いをしっかり伝えることだ。月初の朝礼では、自ら英語でスピーチをする。ここでも英文原稿を練って、経営方針や経営者としての思いを自分の言葉で伝えることに心を砕いた。
「シンガポール駐在は、気持ちをリセットする上でよかった」と安田さん。高島屋の原点を思い起こすことができたという。シンガポールでは、高島屋の買い物袋を誇らしげに持ち歩く人が少なくない。従業員も取引先も、高島屋の仕事をすることを誇りに思い、ロイヤリティが高い。不況が長く続いた日本に比べると、活気がある。20年、30年前の日本を見る思いがした。
現場の人と何か作り上げていく気持ち、高島屋で働くことを誇りに思う気持ち――これは今の日本でも同じではないか。同じでいいのではないか。こうした思いを強くしたことが、帰国後に新宿店、日本橋店という基幹店の店長を務める上での、背骨となった。
仕事の基礎を叩き込まれた20代。上司の背中から学ぶ
今やトップランナーのひとりである安田さんだが、20代半ばのころは会社を辞めてしまおうかと悶々としていたという。
当時の担当は日本橋高島屋のリビングフロア。高島屋は老舗らしく、重厚な一流メーカーの家具ばかりが並んでいた。ところが、来店客には新婚の若いカップルもいれば、カジュアルな感覚の若い世代も少なくない。「もっと明るく、小さな家具を扱ってはどうか」と上に提案しても、「そんなのは雑誌の世界の話だろう」「うちの顧客の好みではない」と退けられる。次第に「自分はここにいる意味があるのか」と思い詰め始めた。
しかし、鬱々とする日はそう長くは続かなかった。上司が変わり「面白いじゃないか、やってみろよ」と背中を押された。少しずつチャレンジが始まる。さらに追い風となったのが、大卒女性の意見をもっと生かそうと「大卒女性プロジェクトチーム」が立ち上がったことだ。高島屋で大卒女性の採用が本格化したのは80年代に入ってからのこと、83年入社の安田さんにとっても大卒女性の先輩はごくわずかで、フロア全体を見渡しても数人しかいなかった。この女性たちにもっと活躍してもらおうというものだ。
20代の大卒女性らは、アシスタントバイヤー、もしくはコーディネーターに次々抜擢された。コーディネーターは、店舗全体の販売計画の下、フロアごとに販売展開のテーマを定めて、企画を立て、新しい取引先を開拓しつつ品ぞろえをする、といった役割を担う。安田さんが任されたのは、家具売り場のコーディネーターだった。
コーディネーターを務めた5年ほどの間、水を吸ってぐいぐい伸びていくように自身の成長を実感した。先進的で発想豊か、それを形にする力のある上司のもとで、仕事の進め方、世界の広げ方を見せてもらったという。
あるときは、海外の家具情報をもとにフロア内に国ごとに5つのモデルルームを作った。フランスのコーナー、ミラノの部屋など。そしてフロア中央に世界の一流メーカーの椅子を集めたカフェを開いた。そこにインテリアの本を置き、家具の相談もできるようにした。先進的な企画をしたことがフロア全体の改装につながり、そして店内改装につながる。そうしたダイナミックな売り場の作り方を上司の背中から学んでいった。バブルに向かって右肩上がりに伸びていたころのこと、上昇気流にのり「とにかく面白かった」と振り返る。
新宿店立ち上げメンバー7人のうちの一人となる
1992年、高島屋新宿店の準備室として7人が指名された。安田さんはそのうちの1人。係長だった安田さんは最年少で、お茶くみでもなんでもすることになる。今でこそ新宿南口周辺はおしゃれなウッドデッキが広がるが、当時は飲み捨てられたワンカップ酒の空き瓶が転がるようなところだった。オープンまで4年、さらに開店を迎えてまもなくマネジャーとなり5年、あしかけ9年にわたり、新宿店の立ち上げにかかわることになる。
この時学んだことは「思いが強ければ、プロジェクトが形になるわけではない」という現実だ。経営トップが交代したことで、新店舗の方向性が変わり、戸惑ったこともある。下の人間としては芯になるものを見失わないようにしなければならない。上の方針を受け入れつつ、自分としては譲れないところは上手くプランに盛り込んでいく。一方で譲れるところは柔軟に対応する。こうして、何とか思い描いたリビングフロアを形にしていった。現実を見据えて組織のなかで折り合いをつけながら、譲れないものを形にする方法を身に付けたといえる。
開店後まもなくマネジャーに昇進してからは、売り場の中間管理職としての苦労が待っていた。現場責任者として「マネジャー、これはどうするのですか」とことあるごとに、現場判断を求められる。高島屋の社員、パート社員、取引先からの派遣社員とさまざまな立場のスタッフ約100人を一つにまとめることに腐心した。コツは「とにかく裏で、一人ひとり向き合って話を聞くこと」だという。最初はひたすら傾聴に徹する。ただしすべてを受け入れるわけもいかない。ときには「だけど、こうだよね」と諭さなければいけない。38歳にして、多様な立場の社員100人をまとめあげることで、ダイバーシティマネジメントの力を磨いていった。
1カ月で7キロやせる。時には開き直りも必要と知る
40歳を超え、本社スタッフに戻ったとき、思わぬ試練が待ち構えていた。日本橋店、玉川店の大型2店舗の改装を進める仕事につき、アイデア豊富な上司からの命を受けて社内調整をするなかで、心身ともにまいってしまったのだ。心労から眠れなくなり、食事をしても味が感じられなくなった。1カ月で7キロもやせてしまう。医師から薬を処方してもらい、何とか眠れるようになり思ったのは、ときには「開き直りも必要だ」ということだ。重要な仕事からもしも外されたら、と思い詰めて頑張ったところで、健康を害しては何もならない。体を壊してまでするべき仕事などない。激やせから得た教訓だ。
奔走した結果、改装は成功し、売り上げアップにつながった。「私が成果を上げたわけではありません」と、あくまで謙虚である。手柄にするどころか、もっとうまく仕事をコントロールすればよかったと反省の弁まで語る。
マネジャーになってからの戸惑いが最も強かったのは、45歳で部長になったときかもしれない。部長は現場に、進むべき方針を差し示す役割を担う。会社の経営陣が決めた方針を現場に伝えないといけないが、それが時には現場に負担をかけるものであったりする。会社からの文書を読み上げるだけでは、部下は納得しない。自分も腹落ちしないこともある。ではどうするか。部下のマネジャーらとよく話し合い、「ここだけはしっかりやろうよ」と合意形成をする。そうすると「部長がそこまでいうなら、やってみましょう」と意をくんでくれる。部下のマネジャーらは、どこか腑に落ちるものがないと動かないのだ。そのためには、「自分の言葉できちんと話す」ことが何より大切だと考えるに至った。自分の言葉で語ることで、部下の納得性が高まる、成果につながる、これが安田さんのマネジメント理論の核である。
法人本部で新たなビジネスに挑戦。親の介護で人生の深みを知る
2009年に執行役員広報・IR室長に就いてからは、ほぼ1、2年ごとに主要ポストを渡り歩き、階段を上っていった。シンガポール店長に続いて、古巣の新宿店の店長、さらには日本橋店の店長を務める。最大の基幹店である日本橋高島屋の店長とは、さぞかし重責であったろうと聞くと、拍子抜けするほど肩の力が抜けている。
「店長というのはこういう役割だから、と線引きをするのは止めたんです。シンガポール時代に」。シンガポールで自分なりに築いたリーダー理論を、新宿店でも日本橋店でも実践したという。
「リーダーとフォロワーがある局面で入れ替わることもある、そうした組織のほうが強い」。NHKの大河ドラマ『龍馬伝』を引き合いに出す。「名もない人が大きな夢をみて動く。そうした人たちが集まることで、何かが動き始めた、会社という組織も同じ」という。下の人の声に改革の芽があるかもしれない、一人ひとりが大きな力を秘めているかもしれないと考え、よく耳を傾ける。
昨年4月からは、法人事業部長として部下約230人を抱え、約2000社の顧客と向き合う。百貨店の商品を法人向けに販売するのはもちろんのこと、カード会社のポイントカタログ商品を提案したり、企業の制服を制作したり。最近ではふるさと納税の返礼用の品ぞろえを手掛けるなど、業務は実に幅広い。「百貨店以上に攻めの仕事。まだまだ未知の世界で挑戦できることが嬉しい」という。
私生活でもまた、キャリア30年超にして初めての経験をしている。親の介護である。初めて親を介護施設のショートステイに預けたときのこと。「帰らないで」と親に泣きつかれ、号泣しながら帰ってきた。子育て中の部下の「初めての保育園」話を聞くうちに、妙に共感してしまったと苦笑する。介護をするなかで、これまで知らなかった自分が見えてきた。私生活でさまざま大変なことを引き受けながら仕事を続けること、そうした多面性をもつことの大切さを実感する日々だという。
「私は男性と同じメンタリティで仕事をしてきた、子育てもしていないから若い世代の参考にはならない」としきりに謙遜するが、こうした共感力、想像力がダイバーシティマネジメントの力となるのだろう。
代表取締役専務を務めた肥塚見春さんが、メンターでありロールモデルだった
高島屋の女性リーダーといえば、石原一子氏が知られている。1952年に入社し、子育てをしながら常務取締役にまで就いた。東証一部上場企業のなかで初の女性取締役となり、その名を馳せた。石原氏が引き上げたのが、79年入社の肥塚見春さん。夫の海外赴任のためいったん退社した肥塚さんを再雇用制度をつくって呼び戻した。肥塚さんもまた3人の子育てをしながらキャリアを重ね、2013年に女性として同社初の代表取締役となり16年まで代表取締役専務を務めた。
安田さんが高島屋の入社を決めた理由のひとつが、石原さんの存在だった。入社後も、「頑張るのよ」と折に触れて声をかけられたという。先述した大卒女性のためのプログラムも、当時の石原一子常務の音頭で始まったもの。このお陰で、20代の安田さんは後々の仕事の基盤となる売り場づくりを学ぶことができた。
そして肥塚さんとは、新宿店立ち上げメンバーとして机を並べて共に汗をかいた。「姉のような存在。折に触れて相談にのってもらった」という。まさにメンターであり、ロールモデルである。石原一子氏、肥塚見春氏、そして安田さんと、自然につくられたメンタリングチェーンが続き、女性役員が引き上げられていった。先輩の女性幹部が、ごく自然に後輩に手を差し伸べて引き上げる。男性と同様に、女性の間でもこうした自然な育成引き上げの文化が根付くと、裾野が広がっていくだろう。
高島屋は女性に機会が与えられる先進企業として知られている。現在、スタッフの6割、正社員の6割を女性が占める。バイヤーの半数も女性。女性管理職比率は3割に達し、執行役員を含めると役員待遇は17.7%が女性である。ただし、よくよく数字を見ると女性社員6割ながら、女性管理職が3割なのはなぜか。ここに課題があった。石原氏は2人、肥塚氏は3人の子育てをしながらキャリアを積んだが、「(当時は)会社では子供がいることは一切口にしてはならない、と石原さんから厳しく言われていた」と肥塚氏はかつてメディアのインタビューで答えている。つまり男性型働き方をしなければ、昇進できなかったともいえる。
しかし今は時代が違う。男性のような働き方をしてまで昇進をしたい女性は少ない、いや若い男性もまた家庭との両立を望む時代になっている。そこで、同社がいま力を入れるのが、子育てのために短時間勤務をしながらも昇進昇格できる仕組みだ。30歳前後の若手で育児のための短時間勤務者でも現場の責任者、チームマネジャーに就ける。また夕方4時半、5時半までの短時間勤務ながら、係長、課長に昇進した人が、今年は8人誕生した。本人のキャリアロスを防ぐため、会社としては優秀な人に最大限力を発揮してもらうためだという。
石原氏、肥塚氏のDNAは受け継ぎつつ、安田さんは多様なライフスタイルの社員が働きやすい環境にと腐心をし、会社は制度を整える。女性リーダーに新たなキャリアパスが生まれようとしている。
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