日本における女性リーダーの育成は先進国のなかで大きく遅れをとっている。企業内でどのような経験を積んだ女性が、役員に就いているのか。どのような「一皮むける経験」がリーダーシップを育むことにつながったのか。キャリアの軌跡をつぶさに辿ることで、企業内での女性リーダー育成のヒントを探る。 第9回目は、野村証券専務執行役員の鳥海智絵さん(53)。48歳の若さで野村信託銀行の社長に就任、邦銀初の女性トップとなる。昨年春、野村証券に戻り専務執行役員に就いた。ここまでの軌跡を辿ってみよう。

1965年生まれ。89年早稲田大学卒、野村証券に女性総合職二期生として入社。転換社債ワラント部に配属される。94年、米スタンフォード大留学。帰国後、資本市場部、エクイティ部などを経て、2005年社長秘書となる。その後、キャピタル・マーケット部を経て、10年経営企画部長、12年執行役員。14年に野村信託銀行取締役兼代表執行役社長となり、邦銀初の女性トップとして話題を呼ぶ。18年、野村証券営業部門企画統括専務執行役員。
「ゴミを拾ってはファイリングしていました」
鳥海智絵さんは、新人時代を振り返ってこう笑う。89年に女性総合職二期生として野村証券に入社した。女性総合職として「鳴り物入り」で入社したものの、従来の一般職(当時)とともに机ふきといった雑用もこなさなくてはいけなかった。机をふき、ごみ掃除をしながらも、鳥海さんは目を光らせていた。机の上の本をみては「先輩たちはこんな本を読んでいるんだ」と書名をメモ。ごみ箱やコピーの仕損じから、会議資料や商品説明のコピーをみつけては拾ってファイリング。こうして知識を蓄えていった。
銀行社長に就任。部下の役員も部長も、全員年上の男性だった

2014年、48歳の若さで野村信託銀行社長に就任。邦銀初の女性社長として話題になり、メディアからの取材が殺到した。腹をくくってあまたの取材を受けたことで、野村信託銀行の名がテレビや新聞、雑誌に踊ることになる。
とはいえ、最初に辞令を受けたときは驚いた。自分よりはるかに年次が上の先輩幹部が就くポスト、48歳での抜擢は異例だった。部下となる部長も役員も、全員自分より5歳以上年上の男性ばかり。「ものすごく気を遣いました」と、正直に当時を振り返る。
最年少役員にして経営トップ、どのように采配をふるったのだろう。「社員500人の小さな会社。すべて社長がみようとするとマイクロマネジメントになってしまう。そこで、基本は任せることにしました」。毎週の会議で報告はタイムリーに上げてもらう。それを前提に、それぞれの役員に任せ、自らは社長専権事項に注力することにした。
グループ会社の子会社社長は、人事とリスク管理が重要な役割と心得ていた。中でも重要なのはシステムのリスク管理だと考え、ここはしっかり見ようと「とにかく勉強した」。IT用語がわからないところから本を読み、専門家にアポをとって解説を仰いだ。どんな仕組みで、どのようなリスクがあるのか、規制はどうなっているのか、徹底的に勉強をして、知識を蓄えた上で判断を下したという。「わかった上で判断する」、これが年上の役員らの信頼を得ることにつながる。
幹部社員のみならず、一般社員とのコミュニケーションにも心を砕いた。野村証券からの出向社員もいれば、プロパー社員もいる。多様な社員がいるなかで、組織の方向性と目的を明確に伝えることを意識した。社内報をつくり、毎回コラムを自ら執筆。管理職以上が集まるマンスリーミーティングでは、必ず最後に自らが話す時間を設けた。
創業25周年を控え、2017年には、企業理念を全社員で共有するために、ボトムアップを試みた。現場の社員からキーワードを出してもらい、それを吸い上げて役員会で議論して行動指針を作成。それに沿って、社員一人ひとりが「私こうします!宣言」をメールの署名の下に必ず入れるようにした。経営理念に日々触れてもらい「わが事としてもらう」ためだ。メール署名欄に入れるとなると、他の社員への「約束」として実践しなければという気持ちも強くなる。もちろん、鳥海さんも率先してメール署名欄にメッセージを入れた。当時の鳥海さんのメール署名欄をみると「不得意なこと、面倒なことを厭わず、企業理念を体現するための仕組みづくりに日々取り組みます」というメッセージが添えられている。
過去最高益を計上。野村グループだからこそ出来ることを膨らませる
社長に就任して2年目、野村信託銀行は過去最高益を計上する。野村グループの強みを生かす戦略が、ビジネスを伸ばす一因となった。「銀行単体で収益を大幅に上げるのは難しい。証券会社との連携を深めて、グループ内でもっと銀行を活用してもらおう」と考えた。そこで、証券会社の支店を回る営業チ―ムを作る。証券会社出身の役員自らドアノックをして、若手社員を連れて支店長を訪ねた。訪問を重ねるうちに、若手社員がかわいがってもらえるようになり、パイプが太くなっていったという。
さらに、証券グループの銀行ならではの商品拡販にも力を入れた。野村証券の顧客に対して、投資信託や株式を担保にして不動産やクルマのローンを組む有価証券担保ローンの認知度アップに努めたのだ。証券会社の各支店に、このローンは使えるという認識を広めていった。さらには今後の市場拡大をにらんで、2015年から遺言信託も手掛け始めた。
こうした戦略も功を奏し、過去最高益を計上したものの「私の手腕ではない。マーケットに助けられた」と謙遜する。「人件費を見直したことも大きい」と重ねて言う。市場に風が吹いたことも幸いしたが、社長としての舵取りが成果に結びついたことは間違いない。しかし、手柄話として語らないところに、鳥海さんの人柄がみてとれる。
証券会社から子会社銀行トップへ。経験のない銀行業務で社長として采配をふるうなか、これまで様々な局面で蓄えてきた経験、知識が生かせると知ることになる。ひとつは、企業派遣により米スタンフォード大MBAコースで学んだことだ。
「ビッグピクチャーでみろ」というスタンフォード時代の教授の口癖を社長になって思い起こした。さまざまな情報を集めて分析し、判断をする。ビジネススクールで数多くのケーススタディで学んだ「ものの考え方」が、トップとしての経営判断に役に立つことに気付く。組織論も統計分析も、一通り経営判断に必要なことは学んできた。土地勘のない分野はひとつもない。「それまでMBAは実務であまり役に立たないと思っていましたが、20年後に経営トップとなり、初めて役に立つことに気づきました」と苦笑する。


MBA留学での最大の収穫は、自分を相対化する視点だと思っていた。スタンフォード大に身を置いてみると、「野村証券という存在は世界でみると何ものでもなく、日本も何ものでもなく、世の中には素晴らしく優秀な人たちがたくさんいる」ことを体感した。野村証券というガリバー企業にいる、自分は何かできるという錯覚を抱いていたと気付き、鼻をへし折られる思いがした。そんな一皮むける経験は、それはそれで貴重だった。しかし、それだけではなかった。経営者として必要な知識スキルをしっかり体得していたのだ。
社長時代に学んだ「マイノリティの視点」とは?
39歳で抜擢された社長秘書、そして44歳で就いた経営企画部長の経験も、経営トップになってから生きてくる。
社長秘書時代に仕えた古賀信行社長(当時)は、部下に具体的な指示を何もしないタイプ。そこで自分で考えるしかない。「もし自分が古賀さんなら、こんな情報が欲しいのではないか。自分がここでスピーチをするなら、どんな情報が欲しいだろうか」と社長脳になって頭をひねった。もし社長なら何をしてもらうと嬉しいか。社長の立場に立って、役に立つことを必死に考えて実行した。経営トップの思考法をシミュレーションしただけではない。「人の立場に立って考える」ことを学んだことが、後々「もしも上司なら」「もしもお客さまなら」と人の立場に立って考えることにつながったという。
さらに経営企画部長時代は、渡部賢一社長、そして永井浩二社長とふたりの経営者の間近で仕事をすることになった。タイプの違う三人の経営者には、それぞれいいところもあれば、どうかなと思うところもあった。それぞれの良さを、社長になってから思い出すことになる。共通して学んだのは、人をよく見るということだ。役員、部長クラスの部下とよく話すのは当たり前のこと。役職が下の部下にまで心配りをして、声がけをする。そして短い会話の中で、その人物をよく見極めていた。
もうひとつは、断片的な情報から物事を組み立てる力だ。一つひとつの情報を結び付けて大きな絵を描く想像力がある。時間軸、空間軸で大局的にものごとを見る。社長にレポートをあげたときに「こっちは大丈夫なのか」といった問いかけをされて、「申し訳ありません、それは見ていませんでした」と答えたことが度々あった。先まで見通す目がこのときに育まれたように感じている。
ところで、社長になってからも「成長実感」というものがあるのだろうか。不躾な質問をしたところ、しばし考えた後に、丁寧な答えが返ってきた。「あらゆるところに目を配って、組織に責任を持つことは、いい経験となりました」。ここまでは、想像に違わない答えだ。その後、意外な言葉が続いた。


「(グループで)中核でない企業に身を置くことで、貴重な視点を得ることができたと思っています」。これは、どういう意味か。それまで野村グループのなかでも中核企業である野村証券で仕事をしてきた。そこで「真ん中にいると見えないことがたくさんあることに気付いた。マイノリティのメンタリティをもってみると、マジョリティの問題点がわかる」というのだ。「女性というマイノリティ、そして非中核企業というマイノリティ、こうした視点をもって経営を担うことは、これから重要だと思っています」。経営に多様な視点が求められるいま、こうした経験は今後、鳥海さんの強みとなるだろう。
「女性でなければ、今のポジションに就いていなかった」
鳥海さんのキャリアには、「女性初」という冠がついてまわる。社長秘書に抜擢されたときは「なんで女が(エリートポストの)社長秘書をやるんだ」という声も聞こえてきた。事実、自身も「なぜ私が……。営業で目覚ましい成績を上げた人が就くポストなのに」と思ったという。このとき、自身は「女性登用を進める」という会社のメッセージだと受け止めた。鳥海さんが社長秘書に就くと同時に、4人の総合職女性が支店長や部長などに抜擢されたからだ。
さらには課長の昇進も遅れていたのに、飛び級で46歳のとき執行役員に昇進。48歳で野村信託銀行の社長に就任。そして昨年春、営業経験なくして1万人の部下を率いる野村証券営業部門の企画統括専務執行役員となった。いずれも、異例の抜擢である。
「我が社が実力主義であるのは事実。そして同期に比べて劣っているとも思わない」としたうえで、それでも「女性でなければ、今のポジションに就いていなかったのは事実です」と、あっさり笑顔で言い切る。
こう笑顔で言えるようになったのは、実は最近のことだ。女性初、女性役員、女性社長と、昇進昇格する度に、「女性」という枕言葉がついて回り、違和感を覚えてきた。「簡単には言い表せない、きれいごとではすまされない、ものすごい葛藤の中で、女性であることを考え抜いてきた」という。
女性総合職として「後輩のために、辞めるわけにはいかなかった」

入社してまず貼られたレッテルが「女性総合職」二期生。総合職の同期300人のなかで女性はわずか7人。パイオニアとしての期待も大きく、何かといえば注目された。「ものすごく肩に力が入っていた」のも当然だろう。
入社して就いたのは、転換社債ワラントのトレーダー。バブル絶頂期の入社で、朝6時から夜9時過ぎまで、トイレに立つ暇もないほど忙しかった。トイレに駆け込んでも名前を呼ぶ声が追いかけてくる。ついに社員寮に戻っても、名前を呼ばれている感覚に悩まされるようになる。その頃は、自分の仕事の意義が理解できず「船底を掃いているような気分だった」。でも辞められない。女性総合職として期待されて入ったのに、今辞めたら「だから女はダメだと言われてしまう。後輩のために辞められない」と思い詰めていた。
そうこうするうちに、バブルがはじけた。仕事に余裕ができ、本を読む時間も持てるようになった。その間も、冒頭に述べた通り、ゴミ箱に先輩社員が捨てた書類を拾ってはコツコツと学んでいた。すると、3年目が過ぎたころから、自分の仕事の意義が少しずつ見えてきた。自分の扱う商品がマーケットをつくり、発行企業の成長に寄与していることが理解できるようになったのだ。ふと気づくと、船の甲板に出たように視界が開けていた。
次に女性であることを意識したのは、30歳で結婚してからのこと。仕事と家事を完璧に両立しようと思い、夜8時には急いで帰宅して夕飯の用意をした。「ああ、思い切り残業したいな」と内心思いながらも。留学先で知り合った夫とは対等な関係だったから、「先に帰ったほうが夕飯の準備をしよう」というのが基本ルールだった。しかし、早く帰って自分が夕飯をつくろうという思いがどこかにあったのだ。この経験から意外なことに「やはり家事は女性の仕事、というジェンダー・バイアスが強かったことに気付いた」という。ところが、そうした生活は長くは続かなかった。双方ともに忙しくどんどん帰宅が遅くなり、ついには夕食が夜10時半以降になった。さすがに諦めて「できないことは無理をしない」と二人で決めたという。
再び「女性」を突き付けられたのは、銀行社長になってからだ。取材が殺到するなかで、必ず聞かれる質問が「女性活躍をどう思うか」「女性社長としての抱負とは」――。女性でくくられることに抵抗を覚え、自分自身、くり返し「なぜ」と心のうちで問い続けた。
そうして出した答えはこうだ。進む方向が明確な高度成長期は、男性中心の同質集団のほうが経営効率がよかった。しかし今は違う。進む方向が定かでない今、組織に多様性が必要である。そのひとつが女性である。これが鳥海さんという女性役員が、そして女性社長が誕生した意義である。
今春、営業未経験ながら、野村証券で専務執行役員として営業部門を率いることになった。「今までと同じことをしていてはいけないという危機感が、女性を登用することにつながった」と考えた。ならば、従来とは異なる視点で、おかしいと思うことは口に出して、変えていったほうがいい。こう腹をくくり、部下に対して「なぜ、このようにするのか」「どんな意味があるのか」を繰り返し問いかけている。
キャリアのスタートからごく最近に至るまで、「女性初」というレッテルから逃れることができなかった。レッテルがあるゆえに、あるときは辛くても仕事を辞めないバネとなり、あるときには従来の仕事とは違う角度からみる上での強みとなった。女性初のレッテルを引き受けて、自分なりに消化して納得するまでに、30年近くの月日が必要だった。
実は筆者は執行役員に就いて間もない5年ほど前に、鳥海さんにインタビューをしている。その時の固い表情から一変し、柔和で明るい表情になっていることに驚いた。この5年の間、女性幹部として抜擢されることの意味を考え抜いてきたのだという。その答えを自分なりに導き出した鳥海さんの表情は、実にさわやかだった。「リーダーはいつも明るくなければいけない」。最近これを肝に銘じていると、最後にまた笑顔を見せた。
女性の昇進を手助けする「スポンサー制度」を導入
鳥海さんのキャリアの軌跡をたどると、一皮むけた経験は、およそ4回あげられそうだ。いずれも脱皮経験を通して、視野が一気に広がっている。
はじめは入社数年の「船底を掃いているような時期」から船の甲板にあがったような経験。その間、コツコツと先輩のゴミ箱から資料を拾っては勉強を重ねてきたことが、仕事の意義を見出す成長につながった。
二つ目は、スタンフォード大留学経験だ。野村証券、そして日本を相対化する視点を獲得する。ここでの学びは20年後に社長になったときに生かされる。
三つ目は、社長秘書、そして経営企画部長時代に得た、社長の目線である。古賀氏、渡部氏、永井氏という3人の社長のもとで働いた経験から、経営者脳を育んでいった。
四つ目は、関連会社の社長就任である。野村証券というグループ中核企業にいては見えなかったものが見えてきた。女性に加えて、非中核企業というマイノリティ目線を得たことは、経営者としての強みとなるだろう。
鳥海さんの軌跡からもわかる通り、成長するとは「視野が広がる、視点が上がる」ことでもある。いま女性幹部育成を急務とする野村証券では、こうした経験を積ませる施策として、スポンサー制度とメンター制度に力を入れる。
メンター制度とは、直属の上司ではなく斜め上の上司がメンターとなり、仕事の相談にのったり、私生活の両立を助言したりして教え導くものだ。これに対してスポンサー制度とは、メンタリングにとどまらず、より積極的なポジション「引き上げ」に力を入れる。2010年代に入り米国を中心に、女性の幹部育成にはメンタリングだけでは不十分だとして、昇進を手助けするスポンサーシップが必要だという考えが広まった。スポンサーは、本人に対して昇進のアドバイスをするのみならず、「彼女はこのプロジェクトで成果を上げている」「彼女はこのポストにふさわしいから昇進させるべきだ」など、社内外に対しての宣伝搭となる役割を担う。こうした役割を組織が指名するのは、不自然だという声も聞かれる。確かに不自然だ。しかし女性は男性に比べて、組織の内外で自然にメンターやスポンサーをみつけることがむずかしい。そこで過渡期の策として、組織がメンターやスポンサーを指名して幹部候補の女性につけることで女性の幹部登用を後押ししようというのがこの制度だ。日本では外資系企業各社が導入を進めているが、日本企業での導入はまだ珍しい。
野村証券では2010年に、女性を対象にスポンサー制度を始めた。現在は40代前半の次長級の女性を部店長、さらには役員に引き上げることを目的に運用を進めており、これまでに30人ほどが対象となった。全15カ月のプログラムで、役員がスポンサーとなり昇進に向けてのアドバイスを行う。同時に2カ月に一度コーチをつけて、本人自ら目標に向けて行動を起こすことを後押しするコーチングを行う。
15カ月の期間中には、2回の昇進機会がある。これまでにプログラム参加を経て部長や支店長に昇格した人も出てきているという。効果は様々な面で見られる。期間終了後も、「面倒をみてもらう」関係性が続いたり、他部門の役員から指導をうけることで部門を超えた交流が生まれたり。スポンサーとなる役員の間で、幹部候補となる女性社員が「可視化」された効果も大きいという。
同じく2010年に始めたメンター制度は、おもに30代後半の課長級の女性を対象とする。権限があって部下をもつ、いわゆる課長ポストに就く女性を増やすことを目的として、これまで100人が対象となった。本店から始め、現在は全国の地方支店も対象とする。月1回のメンタリングを受けるために、地方支店から出張してくる人もいる。
両制度の対象者は、人事部門が現場部署の意見も聞きながら推薦する。中には、声がけをされたとき「なぜ女性だけが対象になるのか」と違和感を訴える人もいる。ところが、メンタリングやスポンサーシップを受けるうちに次第に前向きになっていくという。メンター制度の対象者には、地域限定職から全国勤務型へコース変更をしたり、東京転勤を願い出たりする例も出てきたという。
野村証券の女性管理職は2018年4月現在で、475人。2020年までに550人にすることを目標に掲げる。鳥海さんが「だから女性はダメだ」と言われないようにと踏ん張って拓いてきた道は地ならしをされ、後輩たちがいま次々後に続いている。鳥海さんがいま懸念するのは「(恵まれた環境や仕事を)与えてくれないと不満に思う人が出来てきた」ことだ。「与えられた仕事を漫然としていてはいけない。自分から取りにいかなくては」。鳥海さんは、後輩たちにこう発破をかけている。

記事掲載当初、本文中で「邦銀初の女性頭取」としていましたが「女性トップ」に、野村信託銀行についての説明で「本社から出向社員」を「野村証券からの出向社員」に修正します、また「2018年に25周年」を「2017年に25周年」に訂正します。本文は修正済みです [2018/12/04 17:10]
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