日本における女性リーダーの育成は先進国のなかで大きく遅れをとっている。企業内でどのような経験を積んだ女性が、役員に就いているのか。どのような「一皮むける経験」がリーダーシップを育むことにつながったのか。キャリアの軌跡をつぶさに追うことで、企業内での女性リーダー育成のヒントを探る。
第6回目は、キリンビールで技術職出身の女性として初の執行役員となった神崎夕紀さん(55)。2017年春からキリンビール発祥の地である横浜工場の工場長として、約250人の部下を率いる。神崎さんのこれまでの歩みを辿ってみよう。
神崎夕紀(かんざき・ゆき)
1963年生まれ。88年に佐賀大学大学院卒業後、体外診断薬製造メーカーに入社。92年キリンビール入社。福岡工場で品質保証を担当する。97年神戸工場に異動。2004年横浜工場に転勤、経営職となる。2007年、栃木工場醸造担当部長に就く。2010年、生産本部生産統括部生産管理担当主査となり、初の本社勤務となる。2013年R&D本部酒類技術研究所副所長。2015年神戸工場長に就任、ビール業界初の女性工場長として注目される。2017年3月より執行役員・横浜工場長。
執行役員・神崎夕紀さん(55)が、栃木工場の醸造部長だったころのこと。神崎さんはふたつの役割を「兼務」していたらしい。日中は、醸造部長というビール造りの要となる要職で、製造工程に目を光らせる。夜になると近隣の飲食店に同僚とともに飲みに出かける。選ぶ店はあえてライバル会社のビールを扱う店。「キリンビールの味は私が保証しますよ」と言いながらボランティア営業をして、自社製品の扱い店を増やしていたという。昼は醸造部長、夜は自発的に営業切り込み隊長を務めていたわけだ。
ビール業界で、女性初の醸造部長となり、そして工場長に。2017年春には執行役員に昇進し、キリンビール発祥の地である横浜工場の工場長となり采配をふるう。入社時は、「多くを期待されてはいなかった」という神崎さん。ベンチャー企業からの転職組であり、入社は地域限定の技術職。どのようにしてチャンスをつかんできたのだろう。
ベンチャー企業から転職。中途組としていかに貢献するか、自問自答の5年間
「同じ日本の会社でも、こんなにも違うものか」
28歳でキリンビールに中途入社した神崎さんは、こう呟いた。大学院を卒業後、社員70人ほどの医薬系ベンチャー企業に入社し、4年ほど試験管を振る実験の日々を送っていた。IPOに向けて厳しい空気の漂う会社でひたすら研究を続けるなか「私はこの仕事に向いているのか」ともやもやが募り、思い切ってキリンビールに転職を決める。福岡出身で九州の大学で学び、何となく地元勤務のほうがいいかと思い、軽い気持ちで地域限定職を選び福岡工場に配属となった。地方支社とはいえ、社員5000人を超える大企業は、ベンチャー企業とは組織の在り方が違う。目を丸くすることばかりだった。
キリンビール福岡工場では、それまで女性社員といえばお茶くみコピーをこなす事務職スタッフ。技術職の女性も、中途の経験職採用も、初めてのこと。どのように処遇したらいいか、会社の側にも戸惑いがあったようだ。自分なりに頑張っても「へええ、ここまでやるんだ」といった反応で「多くは期待されていない」と感じていた。悶々とするなか「どうやったら会社に貢献できるのか」と自分なりに必死に考えた。
品質保証の実験室を立ち上げよ、という命を受けた。ただし具体的な指示は何もないまま、できることを自分で考えて実行に移す。導入する機械を選定し、レイアウトを決め、原材料や半製品の分析を行う。入社間もなく精麦の分析ができたのは、幸いだった。品質保証の会議では司会を任されるようになり、組織に横串をさしながら、工場全体をみる視点を身に付けていった。
即戦力の中途入社組として、自身の存在意義を自問自答する日々は5年に及んだという。「何かができる自分にならなければ、何も評価されない。存在すら知られない」と、手探りでがむしゃらに動いたこの時期に、基礎をみっちり身に付けることになった。中途入社組としての自身の立ち位置の模索、これがひとつめの脱皮につながったようだ。
横浜工場は、工場見学コースや試飲コーナーを設けるなど、地域に開かれた工場をめざす
神戸工場の立ち上げチームに。転勤の翌日から徹夜で仕事
酒づくりのプロセスに関わる仕事をしたいと希望して、入社5年で神戸工場に異動した。地域限定職で入ったものの、自然に全国型コースへ移行した格好だ。神戸工場では2年目から、希望していた花形部署、醸造部の仕事を手掛けることになる。
神戸工場に移ったのは97年、阪神淡路大震災の影響を受けて新工場の建設は遅れており、時間が足りない、人手が足りないと「まるで野戦病院のような雰囲気だった」。赴任翌日、いきなり徹夜で醸造ろ過器の実験検査をすることになる。何とか生産にこぎつけるや、今度は出荷できない商品を土日返上で倉庫にこもって判定をする「倉庫暮らし」が始まった。
スタッフ全員、忙しいのになぜかエネルギーがみなぎっている、ハイな状態だったという。「辛くないかといわれれば、物理的にはつらい。でも嫌ではない。目標が明確で使命感をもってできる仕事であれば辛くない」ことを、この時に学んだ。これが後々リーダーとなってから、部下に対して目標と使命を説くことにつながる。この修羅場の経験が、技術的、精神的、体力的な自信につながった。ともに頑張った戦友のような同僚らは、かけがえのない仲間となった。
「リーダーをめざそう」。こう自覚するようになったのは、神戸工場で働いていた30代半ばのころだ。現場からの提案がはかられる経営者会議に参加できない、伝聞で結果を聞くしかないことにもどかしさを感じるようになったのだ。醸造はチームで手掛ける仕事、そのアウトプットに責任を持つには、決定権を持たなくてはいけない、自分のポジションを上げなければいけない、とごく自然に思うようになった。「現場のみなの努力を無にしないためには、意思決定する立場に就くことが必要だ」と上を目指すようになる。
工場の過酷な立ち上げ経験で自信をつけ、チームプレーの醍醐味を知った。そしてリーダーになる決意をかためる。明らかにこのとき、2回目の「脱皮」を経験した。
毎朝必ず、横浜工場内にある稲荷神社に安全祈願をしてから出勤する
栃木工場閉鎖を部下に告げる。次への準備に目を向けさせる
41歳で横浜工場に異動し、経営職(管理職)の試験を受けて昇格。そして44歳で栃木工場の醸造担当部長に就く。ビール業界で醸造部長といえば技術職の花形ポスト、業界では女性初の着任だった。驚きもあったし、緊張もした。しかし、工場の技術系トップの仕事は楽しかった。ところが、そんな楽しい時期は長くは続かなかった。栃木工場の閉鎖が決まったのだ。
部下一人ひとりと繰り返し面談し、転勤を伴う異動を告げなければいけない。多くは栃木工場で働くことを前提に地域限定職となり、家を買い、家族と地元に根をおろして生活する社員らだ。中には、怒りで涙ぐむ社員もいた。恨み言をぶつけてくる社員もいた。ただ、耳を傾けるしかなかった。
ひとしきり話を聞いたあとは、次に目を転じるように働きかけた。それがリーダーとしての役割だと心得ていた。世の中、理不尽なことはある。自分の意に沿わない方向に事が運んでしまうこともある。それをどう受けとめるかは自分次第だ。恨み言を言い続けていると、その言葉で腐ってしまうのは自分である。自分が一番ダメになってしまう。次の職場でスイッチが入るように、準備を始めよう。自分の気持ちをつくるのは、自分にしかできない、と社員の背中を押し続けた。
同時に経営職として、胸に手を当て決意したことがある。社員にこんなつらい思いをさせるようなことは二度とないようにしよう、と心に誓ったのだ。工場の閉鎖経験という修羅場は、胆力をつける脱皮経験となった。
本社で出会った他部署の社員に「人間不信になりそうになった」
栃木工場をたたんだ後は、本社の生産本部で全国9工場の生産をとりまとめる仕事が待ち構えていた。生産、営業、物流の三位一体を目指して多くの部署と調整する、その矢面に立つことになる。営業やマーケティングなど技術以外の社員と初めて組むことになり、「あまりの価値観の違いに、最初は人間不信になりそうだった」と振り返る。
新商品の開発にあたり「このくらいのシェアをとれるはず」「(発売は)今でないといけないのです」とプレゼンをする開発者を前に「何を根拠にそう言うのだろう」と唖然とする。「3カ月後には新商品を発売したい」という主張には、「設備も準備も必要なのだ」と反論したかった。事実と理論を根拠に話を進める技術者とはあまりに違う発想に戸惑うばかりだった。しかし、意外にもすぐ慣れた。そして無理難題であっても、社の方針としていったんやると決めたからには「必ずやり切る。それが使命」と腹をくくった。
こうした腹の括り方は、本社時代に経験した東日本大震災の対応でも発揮された。仙台工場が被災するなか、他の工場にどのように機能を移管・集約するか、いかに需給の立て直しを図るか。ビール醸造タンクが倒れているネット映像をみながら、物流や営業の担当者と緊急対応を話し合った。
初めての本社勤務で視野が一気に広がった。多くの組織をまとめることの厳しさ、競合他社との闘い、その中で負う責任の重さを、経営職として痛感することになる。さらに一皮むけた神崎さんのもとに、「思ったよりも早く」工場長就任の話がきた。51歳で神戸工場長へ。そして53歳で横浜工場長に。
キリンビール入社時の最初の上司からは、お祝いのはがきが届いた。部下に対しては言葉少なであれこれ指示はしないものの、じっと見守り「信じて任せてくれた」上司である。ビールの味や香りをはかる官能評価の腕も確かで、基礎をしっかり教えてもらった。その後も、折に触れて遠くから気遣ってくれていた。
「この人に信頼されたい。必要とされる人でありたい」と思うような上司に、何人も出合うことができた。きちんと任せてくれ、ダメなときにはダメという。説明や指導に無駄な時間は使わない。何かあったら責任をとる。こんな上司の姿を目にするにつれ、自分もいつかこんな上司になろう、と思い背中を追いかけるうち、いつしか自分が、多くの部下に背中を見せる立場になっていた。余儀なく閉鎖をした栃木工場時代の部下と、横浜工場で再会することもある。元気な顔をみるとほっとするという。
2018年5月、工場のメンバーと共に横浜パレードに参加
技術系女性の星。自らロールモデルを引き受ける
昨春、技術系出身の女性として初めての執行役員に就任。神崎さんはいま技術系女子の星といっていい。しかしキャリア前半の道のりは、決してエリートコースとはいえないものだった。入社時に「さほど期待されていない」と本人が感じたことは、既に述べた通り。20代、30代のころは、選抜型の社内研修に参加したいと手を挙げても、受けられなかったこともあった。しかし、腐ることはなかった。「仕事を通しての学びが一番である」と、自分自身感じていたからだ。
「技術職のキャリア形成のお手本的な存在」との会社側の期待に応え、自らもロールモデルとしての自覚をもって、後輩らに語り掛ける。「チャンスを生かせる自分になっておこう」。チャンスはいつ来るかわからない、楽しくないと思うような仕事がおりてくることもある。でも、本当にやりたい仕事がきたときに、最大限応えられるような自分になっておくことが必要だ。そのためには「目の前にある仕事をきちんとする、手を抜かないこと」だという。
むろん神崎さんの実践を通しての助言である。こうして仕事に取り組む姿勢を、会社の側も見逃さなかった。地域限定職でありながら、転勤したい、そして醸造の仕事に関わりたいという希望をかなえてきた。仕事ぶりを目にした上司が、全国工場に数名しかいなかった女性技術者の神崎さんを特別扱いせずに鍛え、引きあげてきたことも事実だろう。
道なき道を拓いてきた神崎さんのスタッフ時代とは様変わりし、いまキリンビールでは女性管理職の育成に力を入れる。2007年に2.1%だった女性管理職比率は、2017年には6.1%となり、この10年でほぼ3倍に増えたことになる。今後も継続して女性管理職を育てるにあたり、いま力を入れるのは、リーダーを目指す女性を増やすこと。特に入社3年目から5年目あたりの若手層への働きかけだ。
その一つが、前倒しのキャリア形成。女性は30歳前後で結婚、出産といったライフイベントを迎える人が多い。出産育児の時期には、どうしてもキャリアで遅れをとりがちだ。そこで、20代から30代の若手社員に重要なプロジェクトを担当させるなど早めに一皮むける経験をさせ、得意領域をみつけるよう促すという。こうした女性社員の育て方は冊子にして、女性の部下をもつ管理職全員に配布している。とくに技術職の女性部下をもつ現場を中心に人事が巡回をして、実践されているかどうか確認をしているという。
二つ目は、メンタリングプログラム。入社3年から5年目の女性社員を対象に、先輩の男女社員がメンターとなる。海外経験を積んでいる人、子育てとの両立経験のある人など、メンタリングを受ける側は、メンターの希望を出すことができる。人事がマッチングをしたうえで、一対一のメンタリングを行っている。
三つ目のユニークな取り組みとして、「なりキリンママ・パパ」プロジェクトがある。文字通り、社員が「(子育て中の)ママもしくはパパになりきって働いてみたら」と疑似体験するものだ。「保育園のお迎えのために『お先に失礼します』というのが、こんなにつらいとは知らなかった」「短時間勤務は、時間に追われて大変だ」といった、両立社員の大変さを体感することになる。
実験的な導入を経て、2018年2月から全社で段階的に実施することになった。試験的に実施をするなかで、「人員が1.5人必要なところに一人しか配置されていない」「訪問回数を目標にするような昭和的営業がまだ行われている」といった人事、経営の改革につながる気づきが多く見られたことから、組織変革につながる可能性を感じたからだ。「なりキリンママ・パパ」体験を、組織を変革していくリーダー育成にもつなげたいという。この取り組みは一見迂遠なようでいて、組織変革を通してリーダー候補の女性社員を辞めさせない、時間制限のある社員でもキャリア形成を諦めさせないことにつながるものだ。
神崎さん自身、かつてのような「24時間つかう働き方はもはや許されない」として、自身のこれまでの働き方はもはや通用しないと語る。とはいえ自身の成長のためには、どこかで集中してインプットをしなければいけないのも事実だ。「時間制約のある中で、その方法を自分で考えなければいけない」難しい時代に入ったと感じている。社員が成長し続ける現場をいかにつくるか。トップリーダーとなったいま、部下の部長らと膝を突き合わせて議論をする日々が続いている。
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