栃木工場閉鎖を部下に告げる。次への準備に目を向けさせる

 41歳で横浜工場に異動し、経営職(管理職)の試験を受けて昇格。そして44歳で栃木工場の醸造担当部長に就く。ビール業界で醸造部長といえば技術職の花形ポスト、業界では女性初の着任だった。驚きもあったし、緊張もした。しかし、工場の技術系トップの仕事は楽しかった。ところが、そんな楽しい時期は長くは続かなかった。栃木工場の閉鎖が決まったのだ。

 部下一人ひとりと繰り返し面談し、転勤を伴う異動を告げなければいけない。多くは栃木工場で働くことを前提に地域限定職となり、家を買い、家族と地元に根をおろして生活する社員らだ。中には、怒りで涙ぐむ社員もいた。恨み言をぶつけてくる社員もいた。ただ、耳を傾けるしかなかった。

 ひとしきり話を聞いたあとは、次に目を転じるように働きかけた。それがリーダーとしての役割だと心得ていた。世の中、理不尽なことはある。自分の意に沿わない方向に事が運んでしまうこともある。それをどう受けとめるかは自分次第だ。恨み言を言い続けていると、その言葉で腐ってしまうのは自分である。自分が一番ダメになってしまう。次の職場でスイッチが入るように、準備を始めよう。自分の気持ちをつくるのは、自分にしかできない、と社員の背中を押し続けた。

 同時に経営職として、胸に手を当て決意したことがある。社員にこんなつらい思いをさせるようなことは二度とないようにしよう、と心に誓ったのだ。工場の閉鎖経験という修羅場は、胆力をつける脱皮経験となった。

本社で出会った他部署の社員に「人間不信になりそうになった」

 栃木工場をたたんだ後は、本社の生産本部で全国9工場の生産をとりまとめる仕事が待ち構えていた。生産、営業、物流の三位一体を目指して多くの部署と調整する、その矢面に立つことになる。営業やマーケティングなど技術以外の社員と初めて組むことになり、「あまりの価値観の違いに、最初は人間不信になりそうだった」と振り返る。

 新商品の開発にあたり「このくらいのシェアをとれるはず」「(発売は)今でないといけないのです」とプレゼンをする開発者を前に「何を根拠にそう言うのだろう」と唖然とする。「3カ月後には新商品を発売したい」という主張には、「設備も準備も必要なのだ」と反論したかった。事実と理論を根拠に話を進める技術者とはあまりに違う発想に戸惑うばかりだった。しかし、意外にもすぐ慣れた。そして無理難題であっても、社の方針としていったんやると決めたからには「必ずやり切る。それが使命」と腹をくくった。

 こうした腹の括り方は、本社時代に経験した東日本大震災の対応でも発揮された。仙台工場が被災するなか、他の工場にどのように機能を移管・集約するか、いかに需給の立て直しを図るか。ビール醸造タンクが倒れているネット映像をみながら、物流や営業の担当者と緊急対応を話し合った。

 初めての本社勤務で視野が一気に広がった。多くの組織をまとめることの厳しさ、競合他社との闘い、その中で負う責任の重さを、経営職として痛感することになる。さらに一皮むけた神崎さんのもとに、「思ったよりも早く」工場長就任の話がきた。51歳で神戸工場長へ。そして53歳で横浜工場長に。

 キリンビール入社時の最初の上司からは、お祝いのはがきが届いた。部下に対しては言葉少なであれこれ指示はしないものの、じっと見守り「信じて任せてくれた」上司である。ビールの味や香りをはかる官能評価の腕も確かで、基礎をしっかり教えてもらった。その後も、折に触れて遠くから気遣ってくれていた。

 「この人に信頼されたい。必要とされる人でありたい」と思うような上司に、何人も出合うことができた。きちんと任せてくれ、ダメなときにはダメという。説明や指導に無駄な時間は使わない。何かあったら責任をとる。こんな上司の姿を目にするにつれ、自分もいつかこんな上司になろう、と思い背中を追いかけるうち、いつしか自分が、多くの部下に背中を見せる立場になっていた。余儀なく閉鎖をした栃木工場時代の部下と、横浜工場で再会することもある。元気な顔をみるとほっとするという。

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