とにかく元気で明るく、よく喋る。そして、いつもどこか「思い」を感じさせる、「志」がある。だからこそ部下は奮起し、周りは応援したくなるのだろう。

 部下に対しては、「こうした駅を作りたい」と進むべき方向性を示して、決してあきらめないリーダーとしての姿を見せてきた。出店候補を絞る会議は、スタッフの間で「地獄のMD会議」と呼ばれていた。「有名店だから、大手百貨店に出店しているから」といった理由で提案しようものなら、鎌田さんに即座に却下される。「なぜ、その店なの?」「どこがいいの?」と立て続けに質問される。さらにエキナカにとっての意味も問われる。「あなたはそれで何がしたいの?」。提案する人の思いが伝わらないと、「提案に魂が入っていない」と鎌田さんから喝が入ることもあった。

 

 むろん、アイデアを提供したり、助言をしたりといったフォローも欠かさない。出店を断られ続けて折れそうになる部下に対しては「10社断られても、11社断られても、あまり変わらないよね」と背中を押したり、「お客様は絶対喜んでくださる。私たちの舌に間違いはないから」と励ましたり。

 修羅場をくぐった部下たちの目覚ましい成長が、何より嬉しかったという。数年を経て、「その道のプロ」となり元の職場に帰っていく姿を目を細めて見ていた。

 エキナカのプロデューサーとして、メディアにも度々登場。エキナカの成功譚が広く知られるようになったある日、突然、本社に戻る異動の辞令が出る。

エキュート品川立ち上げを前に、新商品を検討。手にする50センチの電車型ロールケーキは話題を呼んだ

エキナカから地域活性化事業へ。「これぞ私の生きる道」

 本社に戻り手掛けることになった仕事は、地域活性化と子育て支援に関する事業。社員約100人を率いる子会社の社長から、本社経営戦略部門のチーム5人の部長へ。傍目には、不本意だったのではと映るかもしれない。しかし、本社に異動して、地域活性化事業、子育て支援事業を手掛けるなかで、なにか「腹落ち」するものがあった。エキナカ事業は、むろん嫌いではなかった。しかし、一生これをやるのかと問われると、首をかしげる自分がいた。公共性の高い事業で、社会に貢献したいといった気持ちが強かったのだろう。

 手掛けた事業の一例が、冒頭に紹介した青森でのシードルづくりである。日本の地方には、すばらしい資源がある。地方を元気にするために、まだまだできることがある。大きな産業でなくてもいい。小さくても雇用を生み出し、観光客を呼ぶような産業を生み出すことができれば、日本の地方はもっと豊かになるはずだと考えた。例えば、ジビエ。イノシシやシカの加工場もなければ、どんなポーションに分けて、どのように売れば流通にのるかのノウハウがない。こうした知見のある人が地方で知恵を絞れば、ジビエの産出で潤う地方もあるのではないか。

 地方活性化のために、越後湯沢の駅再生、地方の物産を集めた店舗「のもの」開店など、次々に新しい事業を立ち上げた。また駅型保育園を核にした子育て支援事業も拡大し、沿線価値を高めることに取り組んだ。

 エキナカ成功とは違う意味で、さらに「一皮むける」こととなった。いつしか「これぞ私の生きる道」と思うまでになる。そこへまたしても、異動の命である。

 今度は研究所への異動だった。ライフスタイルなどの研究を手掛け、論文執筆により評価されることになる。本人は「現場を離れたことがつらかった」「通勤が片道2時間は長すぎた」と多くを語らない。そのころちょうど、親しかった友人を亡くした。「人生いつ何が起きるかわからない」と自身の生き方を問い直すことになる。

 こうしたなかで、以前講演に招かれたカルビーの松本晃会長(当時)から、「カルビーに来てもらえませんか」と声をかけられた。むろんエキナカを成功させたことが高く評価されてのこと。カルビーで新規ビジネスを立ち上げることを期待されてのヘッドハンティングである。

「メーカーでのものづくりへの憧れ」もあって、転身を決意する。2015年、48歳の若さで上級執行役員として迎えられることになった。