日本における女性リーダーの育成は先進国のなかで大きく遅れをとっている。企業内でどのような経験を積んだ女性が、役員に就いているのか。どのような「一皮むける経験」がリーダーシップを育むことにつながったのか。キャリアの軌跡をつぶさに辿ることで、企業内での女性リーダー育成のヒントを探る。 第5回目は、カルビー上級執行役員の鎌田由美子さん(52)。JR東日本(東日本旅客鉄道)時代に、駅の構内での物販やサービス事業を手がけるエキナカ事業を立ち上げ、成長軌道に乗せた。48歳で上級執行役員としてカルビーに転じた、鎌田さんの軌跡を辿ってみよう。
鎌田由美子 (かまだ・ゆみこ)
【略歴】
1989年東日本旅客鉄道入社。2001年プロジェクトリーダーとしてエキナカ事業を立ち上げ、2005年「ecute」を運営するJR東日本ステーションリテイリング代表取締役社長となる。その後、本社事業創造本部にて「地域活性化」「子育て支援」を担当、青森のシードル工房「A-FACTORY」や「のもの」等地産品の開発に携わる。2015年2月カルビー入社、上級執行役員に就任。事業開発本部の本部長として、「カルビープラス」などのアンテナショップや新規事業を担当。国や行政の各種委員を歴任し、大学の評議委員や社外取締役も務める。
初夏を迎えようとする頃、青森県弘前のりんご畑の間を走る道は、ほんのりピンクがかった白い花に包まれる。青森空港から弘前市に入る、通称アップル通りを車で走りながら、その光景に目を奪われていた鎌田由美子さんの脳裏に、フランス・ノルマンディー地方のシードル街道の光景がふと浮かんだ。
2008年から5年間、鎌田さんはJR東日本事業創造本部で地方の活性化事業を手掛けていた。「青森新幹線の開通を控えて、青森で何か(地域を盛り上げる事業を)やってくれないか」と相談を持ち掛けられていたのだ。
仏ノルマンディーのシードル街道をヒントに、青森でヒット商品を生み出す
ノルマンディーのシードル街道では、小さな農家が自家製のリンゴ酒、シードルをつくり、我が家の味を誇るかのように観光客に売っている。生のリンゴのみならず、シードルは農家にとって貴重な収入源になっている。同時に観光客にとっては、美しいリンゴ畑の景色に加えて自家製シードルを味わえるとあって、人気のスポットとなっていた。
青森の名産であるリンゴは、8割は生のまま出荷されているが、残り2割はジュースなど加工品として売られている。シードルという加工品が全国に動けば、それが地域のメッセンジャーとなる。観光客もひきつけ、地域の誇りにつながるはず。シードルにとどまらず、いずれはカルヴァドス(アップルブランデー)までできるといい…。リンゴに付加価値をつければ、時間がおカネに変わる。鎌田さんの中で、カチッと歯車があった。
とはいえ、ゼロからシードル工場をつくるのは簡単なことではない。青森産のリンゴでシードルづくりを研究していた弘前地域研究所に部下を送り込み、修行をさせつつ商品開発を進めた。工房の建築デザインは、インテリアデザイナー片山正通氏に依頼。グッドデザイン賞に選ばれた洗練された建物A-Factoryは、製造過程が見えるガラス張りの工房に、海を臨むレストランを併設し、観光客をひきつけることとなる。ここで作られるシードル「AOMORI CIDRE」は甘口から辛口まで3種類、青森産のふじとジョナゴールドの旨味が詰まった、洗練された味わいだ。ノンアルコールのアップルサイダーも含め、発売から8年経った今も、販売は好調だという。この成功をみて、追随してシードル工場を作る動きも出てきた。地元の結婚式では、シードルで乾杯するケースも増えたという。まさに、青森の特産品、そして地元の誇りを生み出したわけだ。
JR東日本でエキナカを生み出したことで知られる鎌田さんだが、実はこうした地域活性化事業は、エキナカを上回る充実感だったという(上のチャート)。それは、なぜか。少し時計の針を巻き戻しながら、鎌田さんの「一皮むけた経験」を紐解いていこう。
「駅再生のためプロに学びたい」、百貨店への出向を願い出た
1989年、国鉄民営化後初の大卒採用社員として、JR東日本に入社した。ときはバブル期で世の中が浮き立っていた頃、小売りでは百貨店が王者として君臨する時代が続き、JR各社とも百貨店と提携し、「下駄ばきビル」と揶揄されていた駅ビルの再生を試みていた。
鎌田さんは、駅ビル再生ビジネスを手掛けたいと、入社間もなく手を挙げて百貨店への出向を願い出た。「プロのところで学ばなくてはいけない」と考えたのだ。横浜そごうで2年間、レジ打ちの現場から、友の会の運営、外商までみっちり学んだ。いざJR東日本本社に戻り、経験を生かそうと思ったところで、バブル崩壊の影響もあって百貨店との提携計画は凍結となった。駅ビルからファクスで送られてくるデータを入力して日報をつくる日々が始まった。他社の同年代の友人らは入社数年でMBA留学し、キャリアアップを目指していた時代。悶々とする日が続いた。
しかし、諦めなかった。「(今)できないなら、できるまで頑張ろう」と思った。どうやら20代のうちから、鎌田さんの辞書に「諦める」という文字はなかったようだ。
臥薪嘗胆の時期を経て、29歳のときチャンスが巡ってきた。阪急と提携して立川駅に小型の百貨店スタイルの商業施設をつくる計画が持ち上がり、そのチームに加わることになったのだ。このとき誕生したグランデュオ立川は、JR東日本としては初めて空間開発から手掛けた小売業である。ここで、店舗のマネジャー、課長職を経験し、店舗管理のノウハウを身に付けることになる。
35歳のとき、思わぬチャンスが訪れる。のちのエキナカを開発することになるプロジェクトチームに副課長として異動、実質的にチームをとりまとめる現場チーフに指名されたのだ。ここから、「一皮むける」ことにつながるエキナカプロジェクトが始まった。いうまでもないが、そごうへの出向経験、グランデュオ立川立ち上げと、基礎固めができていたからこその、飛躍のチャンスである。
タテ割りの大組織を、根回し、調整で走り回る
「通過する駅から、集う駅へ」というコンセプトは、中期経営計画で決まっていた。「ステーションルネッサンス」を掲げ、駅を最大の経営資源として捉えて、ゼロベースで駅スペースの在り方を見直していくという。しかし、中身は何も決まっていない。とにかく与えられたお題は、「新しい駅づくりを考えろ」というもの。
まず始めたのは、駅の現状把握。朝4時台の始発から夜12時過ぎの終電まで、師走の凍てつくなかで3日間、駅に立って人の流れを観察した。まるで雑踏のなかにいるように、利用客がまったく立ち止まらないことにショックを受ける。施設に目を向けると、売店といえばキオスクのみで、空調もきいておらず、照明は蛍光灯ばかり。トイレにいくと異臭が鼻につく。立ち食いソバ店は、女性には入りにくい。こうした駅のマイナスを一つひとつ潰していくことからエキナカプロジェクトが始まった。間接照明にしたい、トイレをきれいにしたい、床材を替えたい…これらを実現しようとすると、担当部署がすべて異なる。しかも仕様変更は、副課長レベルでは出席できない部次長会議で決められる。
上司である取締役部長に会議に出席してもらい、社内調整をしてもらった。「清掃はどうするのか」「電球はだれが替えるのか」といった細かな課題の提示から、「そもそもどんな駅にしたいのか分からない」「データをもってこい」という要請まで、疑問が噴出する社内中を根回しや調整に走り回った。社員7万人を超える大企業の縦割り組織の論理を思い知らされた。
何しろ巨大な組織で、長年続いた「駅のルール」を塗り替えるのは、並大抵のことではない。駅のトイレの清潔感や快適性を上げていきたいと百貨店のトイレを徹底的に調査した。また、エキナカの空間としての統一感をはかるため、広告を掲載しないと提案したときも紛糾した。エキナカをつくることで駅の価値が上がり、駅全体の広告掲載料が上がると訴えた。
一方で、わずか3人でスタートしたチームが組織として大きくなるにあたり、「グループ企業からの公募」を役員に提案した。「ステーションルネッサンス」はJR東日本あげての大プロジェクト、ならばグループ会社総力挙げて取り組むべきだと訴えたのだ。当時の事業責任者であった副社長に頼み込み、「若い力を結集させてください」とグループ会社に協力を仰ぐ「一筆」を書いてもらった。こうして、自ら手を挙げた、やる気のある若手社員が集まってきた。
さて、問題はグランドデザインの具体化である。「自分たちが買いたい、欲しい、食べたい店」に出店してもらう。しかも経済効果の上がるものでなければならない。
出店依頼をするにあたっては、これぞという店をスタッフ全員で足で探した。渋谷の雑居ビル上層階にある、かにチャーハンで有名な店の店主を口説き落したこともあった。評判のいいケーキ店は100店舗以上当たった。スタッフが買い集めて会議室で食べ比べ、有名ブランドにとらわれず、皆が美味しいと評価した店に足を運んで交渉した。「100個食べた中で、御社のケーキが一番おいしかったから是非出店して頂きたい」という言葉に嘘はなかった。
チームで共有する方向性にブレはない。しかし、まだ誰一人として見たことのない「エキナカ」への出店交渉は難航した。手分けして何百社と回るものの、10社中9社に断られる日が続いた。「(暗くて雑然とした駅構内では)労働環境が悪すぎる」「ブランドイメージが崩れる」というのだ。
エキナカ完成のパースを見てもらい、「駅が変わります」と、とにかく説得をした。「新しい駅づくりをするために、御社の力をぜひ貸してください」「私たちが呼び込みをしますから」といった言葉に、「最後は『根負けしたよ』という店が半分くらいでした」と笑う。
売り方にもこだわった。青山フラワーマーケットには、小さなブーケを斜めにラックにかけて売り出すことを提案した。紙箱に入れたまま花のアレンジメントを陳列し、男性客が選ぶのも運ぶのも抵抗ないように工夫した。価格は500円~1200円、百貨店での販売価格より抑えて、POPも大きく見やすいものとした。こうしたミニアレンジメントの販売方法は評判を呼び、その後都内に広がっていった。このように、鎌田チームが編み出したヒット商品は数知れない。
39歳で子会社社長に。「私には無理だと思います」
上司の背中から学ぶことも多かった。プロジェクトスタート当初の上司だった、事業創造本部の取締役部長、新井良亮氏は「日和らない部長」だった。旧国鉄に入社したころは機関車の窯たきだったノンキャリア組で、最後は副社長にまで上り詰めた実力派。仕事の任せ方が上手で、腹がすわっていた。
その上の上司は、のちにりそな銀行に転じて会長となった、副社長の細谷英二氏。りそな銀行の経営を再建し、ダイバーシティ推進をけん引した名経営者である。そして当時の社長は、大塚陸毅氏。社長時代に、スイカを導入し、さらにはエキナカを成功させたことで知られる。「これに投資しても会社は潰れないぞ」と鶴のひと声でプロジェクトを推し進めた姿が、今でも頭に残っている。
社長直下の新規プロジェクトチームのため、副課長であった鎌田さんの上には、課長も次長、部長もいなかった。直属上司は取締役部長。上司の新井氏に付いて「メモ取り」として役員会への出席が許されたこともあった。35歳という若さで、経済界に知られる名経営者の采配に間近に触れ、大局観を学ぶこととなる。
こうした背中を見ていたからか、エキナカ事業を担う子会社の社長に39歳という若さで抜擢されたときは、「私には無理だと思います」と思わず口にしてしまった。後にも先にも「私には無理」と言ったことはない。一晩考えて、翌朝また上司に「無理だと思います」とできない理由を並べて申し出たが、「人間いくつになっても初めてのことがあるものだ」と説き伏せられたという。
2005年3月に、初のエキナカ「ecute大宮」がオープン、6月に子会社社長に就任し、10月には「ecute品川」を開業。子会社の社長として経営を担い、部下のマネジメントもしながら、埋まらない新規出店の交渉も引き受けた。息つく間もなく2007年10月には「ecute立川」を開業。「念ずれば通じる」「為せば成る」が信条と聞くと、鎌田さんの言葉だけに説得力がある。
とにかく元気で明るく、よく喋る。そして、いつもどこか「思い」を感じさせる、「志」がある。だからこそ部下は奮起し、周りは応援したくなるのだろう。
部下に対しては、「こうした駅を作りたい」と進むべき方向性を示して、決してあきらめないリーダーとしての姿を見せてきた。出店候補を絞る会議は、スタッフの間で「地獄のMD会議」と呼ばれていた。「有名店だから、大手百貨店に出店しているから」といった理由で提案しようものなら、鎌田さんに即座に却下される。「なぜ、その店なの?」「どこがいいの?」と立て続けに質問される。さらにエキナカにとっての意味も問われる。「あなたはそれで何がしたいの?」。提案する人の思いが伝わらないと、「提案に魂が入っていない」と鎌田さんから喝が入ることもあった。
むろん、アイデアを提供したり、助言をしたりといったフォローも欠かさない。出店を断られ続けて折れそうになる部下に対しては「10社断られても、11社断られても、あまり変わらないよね」と背中を押したり、「お客様は絶対喜んでくださる。私たちの舌に間違いはないから」と励ましたり。
修羅場をくぐった部下たちの目覚ましい成長が、何より嬉しかったという。数年を経て、「その道のプロ」となり元の職場に帰っていく姿を目を細めて見ていた。
エキナカのプロデューサーとして、メディアにも度々登場。エキナカの成功譚が広く知られるようになったある日、突然、本社に戻る異動の辞令が出る。
エキュート品川立ち上げを前に、新商品を検討。手にする50センチの電車型ロールケーキは話題を呼んだ
エキナカから地域活性化事業へ。「これぞ私の生きる道」
本社に戻り手掛けることになった仕事は、地域活性化と子育て支援に関する事業。社員約100人を率いる子会社の社長から、本社経営戦略部門のチーム5人の部長へ。傍目には、不本意だったのではと映るかもしれない。しかし、本社に異動して、地域活性化事業、子育て支援事業を手掛けるなかで、なにか「腹落ち」するものがあった。エキナカ事業は、むろん嫌いではなかった。しかし、一生これをやるのかと問われると、首をかしげる自分がいた。公共性の高い事業で、社会に貢献したいといった気持ちが強かったのだろう。
手掛けた事業の一例が、冒頭に紹介した青森でのシードルづくりである。日本の地方には、すばらしい資源がある。地方を元気にするために、まだまだできることがある。大きな産業でなくてもいい。小さくても雇用を生み出し、観光客を呼ぶような産業を生み出すことができれば、日本の地方はもっと豊かになるはずだと考えた。例えば、ジビエ。イノシシやシカの加工場もなければ、どんなポーションに分けて、どのように売れば流通にのるかのノウハウがない。こうした知見のある人が地方で知恵を絞れば、ジビエの産出で潤う地方もあるのではないか。
地方活性化のために、越後湯沢の駅再生、地方の物産を集めた店舗「のもの」開店など、次々に新しい事業を立ち上げた。また駅型保育園を核にした子育て支援事業も拡大し、沿線価値を高めることに取り組んだ。
エキナカ成功とは違う意味で、さらに「一皮むける」こととなった。いつしか「これぞ私の生きる道」と思うまでになる。そこへまたしても、異動の命である。
今度は研究所への異動だった。ライフスタイルなどの研究を手掛け、論文執筆により評価されることになる。本人は「現場を離れたことがつらかった」「通勤が片道2時間は長すぎた」と多くを語らない。そのころちょうど、親しかった友人を亡くした。「人生いつ何が起きるかわからない」と自身の生き方を問い直すことになる。
こうしたなかで、以前講演に招かれたカルビーの松本晃会長(当時)から、「カルビーに来てもらえませんか」と声をかけられた。むろんエキナカを成功させたことが高く評価されてのこと。カルビーで新規ビジネスを立ち上げることを期待されてのヘッドハンティングである。
「メーカーでのものづくりへの憧れ」もあって、転身を決意する。2015年、48歳の若さで上級執行役員として迎えられることになった。
48歳でカルビーに転職。新事業立ち上げに挑む。
2017年10月、ルミネエスト新宿店に「Yesterday’s tomorrow」という一風変わった店がオープンした。プロデュースをしたのは、鎌田さん。日本各地の菓子メーカー約120社の菓子800点あまりを集めた店だ。人気は、店に入ってすぐの菓子量り売り「ぐるぐる」のコーナー。約200種類もの個別包装の菓子から好きなものを選んで袋に詰め、1g3円で買うことができる。
Yesterday’s tomorrow
ルミネエスト新宿に開いた菓子店「Yesterday’s tomorrow」。全国800を超す種類の菓子が並ぶ。右が量り売りコーナー「ぐるぐる」
店内には昔懐かしいお菓子、自社製品のほか、文具も並ぶ
「あっ、このお菓子は近所のスーパーにはないよね」と、嬉しそうに菓子を手にする、いがぐり頭の小学生。友人と連れ立ってきた女性客は「懐かしいねえ」と菓子を手にする。べっこう飴やラムネ菓子など、昔懐かしい駄菓子をついつい夢中で選んでしまう。「1円の価格競争に苦しんでいるような、地方のお菓子メーカーさんをもっともっと元気にしたい。お客さまにはお菓子の楽しさを思い起こしてもらえるような場をつくりたかった」と鎌田さん。菓子業界全体の活性化を目指している。
2011年に始まった、作りたて、揚げたてのポテトチップスを味わうことができる直営店「カルビープラス」19店舗の運営も手掛ける。国内にとどまらず、香港に続いて、今年はマカオにも出店した。量販店にはないメーカー直営店で、国内外でファンづくりをしていきたいという。今後は、消費者と双方向のコミュニケーションが取れる仕組みも作っていく予定だ。
鎌田さんを招いて「(社内の)空気が変わった」と松本前会長はいう。新しいものを探して、社外に、そして海外にもすぐに飛び出していく。(全国の支社工場を経営者が回る)タウンホールミーティングでも、鎌田さんはよく喋る。「えっこんな人がいるんだと」と社員はびっくりしているという。(2016年の松本前会長へのインタビュー)。
新天地に転じて3年が経った。「カルビーの強みを生かせば、未来に向けて新しいビジネスが生み出せる」と、鎌田さんは力強い口調で語る。
人生100年時代を見据え、転職を考える女性幹部が出てきた
女性幹部がヘッドハンティングで他社に移る動きが出てきている。リクルートエグゼクティブエージェントのディレクター、渡部洋子さんによると「社外から役員候補となる人を招くにあたり、できれば女性が欲しいというケースが増えている」という。
松本前会長は、鎌田さんを引き抜いた事情をこう語っている。「仮に男性だったとしても、あれだけの実績があれば引き抜いていたかもしれない。しかし、女性の幹部を増やしたいという会社の方向性に合っていたことは事実です」
男女問わず、経営陣として欲しい人材の要件に変わりはない。しかし今、女性役員を増やそうという流れのなか、女性ならなおいい、という企業は少なくない。
こうしたヘッドハンティングの話を受ける、女性管理職の意識にも変化がみられる。「人生100年時代といわれるなか、少なくとも70歳くらいまで働きたい。そう考えると、今のまま一社で積み上げてきた、一本足のキャリアでいいのかと不安を抱く人が出てきている」と渡部さんは言う。現在勤める企業よりも、少し規模が小さくなっても中堅・中小企業で役員など一つ上のポジションをとっていきたい、あるいは他社の社外取締役を兼務することで軸足を増やしたいという相談が増えているという。
この5月、カルビーに執行役員人事総務部門本部長として迎えられた武田雅子さん(50)も、まさに一本足キャリアを問い直して転身を決めた。前職のクレディセゾンでは、営業、人事部門で29年活躍し、取締役まで昇進した。しかし「人生100年と考えると、このまま1社に勤めあげていいのかと考えた」。ひとつのルール、ひとつの価値観では通用するが、はたして社外でも通用する人材なのかと自問自答。「カルビーなら次のフェイズを作れると思った。もうひと踏ん張りしよう」と、あえてコンフォートゾーンから出る決意をしたという。
一皮むける経験を繰り返した女性幹部は、社内の宝であると同時に、社外からみると欲しい人材である。女性経営層の流動化を、企業はどう生かすのか。ダイバーシティ経営の真価が問われるところである。
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