「駅再生のためプロに学びたい」、百貨店への出向を願い出た

 1989年、国鉄民営化後初の大卒採用社員として、JR東日本に入社した。ときはバブル期で世の中が浮き立っていた頃、小売りでは百貨店が王者として君臨する時代が続き、JR各社とも百貨店と提携し、「下駄ばきビル」と揶揄されていた駅ビルの再生を試みていた。

 鎌田さんは、駅ビル再生ビジネスを手掛けたいと、入社間もなく手を挙げて百貨店への出向を願い出た。「プロのところで学ばなくてはいけない」と考えたのだ。横浜そごうで2年間、レジ打ちの現場から、友の会の運営、外商までみっちり学んだ。いざJR東日本本社に戻り、経験を生かそうと思ったところで、バブル崩壊の影響もあって百貨店との提携計画は凍結となった。駅ビルからファクスで送られてくるデータを入力して日報をつくる日々が始まった。他社の同年代の友人らは入社数年でMBA留学し、キャリアアップを目指していた時代。悶々とする日が続いた。

 しかし、諦めなかった。「(今)できないなら、できるまで頑張ろう」と思った。どうやら20代のうちから、鎌田さんの辞書に「諦める」という文字はなかったようだ。

 臥薪嘗胆の時期を経て、29歳のときチャンスが巡ってきた。阪急と提携して立川駅に小型の百貨店スタイルの商業施設をつくる計画が持ち上がり、そのチームに加わることになったのだ。このとき誕生したグランデュオ立川は、JR東日本としては初めて空間開発から手掛けた小売業である。ここで、店舗のマネジャー、課長職を経験し、店舗管理のノウハウを身に付けることになる。

 35歳のとき、思わぬチャンスが訪れる。のちのエキナカを開発することになるプロジェクトチームに副課長として異動、実質的にチームをとりまとめる現場チーフに指名されたのだ。ここから、「一皮むける」ことにつながるエキナカプロジェクトが始まった。いうまでもないが、そごうへの出向経験、グランデュオ立川立ち上げと、基礎固めができていたからこその、飛躍のチャンスである。

タテ割りの大組織を、根回し、調整で走り回る

 「通過する駅から、集う駅へ」というコンセプトは、中期経営計画で決まっていた。「ステーションルネッサンス」を掲げ、駅を最大の経営資源として捉えて、ゼロベースで駅スペースの在り方を見直していくという。しかし、中身は何も決まっていない。とにかく与えられたお題は、「新しい駅づくりを考えろ」というもの。

 まず始めたのは、駅の現状把握。朝4時台の始発から夜12時過ぎの終電まで、師走の凍てつくなかで3日間、駅に立って人の流れを観察した。まるで雑踏のなかにいるように、利用客がまったく立ち止まらないことにショックを受ける。施設に目を向けると、売店といえばキオスクのみで、空調もきいておらず、照明は蛍光灯ばかり。トイレにいくと異臭が鼻につく。立ち食いソバ店は、女性には入りにくい。こうした駅のマイナスを一つひとつ潰していくことからエキナカプロジェクトが始まった。間接照明にしたい、トイレをきれいにしたい、床材を替えたい…これらを実現しようとすると、担当部署がすべて異なる。しかも仕様変更は、副課長レベルでは出席できない部次長会議で決められる。

 上司である取締役部長に会議に出席してもらい、社内調整をしてもらった。「清掃はどうするのか」「電球はだれが替えるのか」といった細かな課題の提示から、「そもそもどんな駅にしたいのか分からない」「データをもってこい」という要請まで、疑問が噴出する社内中を根回しや調整に走り回った。社員7万人を超える大企業の縦割り組織の論理を思い知らされた。

 何しろ巨大な組織で、長年続いた「駅のルール」を塗り替えるのは、並大抵のことではない。駅のトイレの清潔感や快適性を上げていきたいと百貨店のトイレを徹底的に調査した。また、エキナカの空間としての統一感をはかるため、広告を掲載しないと提案したときも紛糾した。エキナカをつくることで駅の価値が上がり、駅全体の広告掲載料が上がると訴えた。

 一方で、わずか3人でスタートしたチームが組織として大きくなるにあたり、「グループ企業からの公募」を役員に提案した。「ステーションルネッサンス」はJR東日本あげての大プロジェクト、ならばグループ会社総力挙げて取り組むべきだと訴えたのだ。当時の事業責任者であった副社長に頼み込み、「若い力を結集させてください」とグループ会社に協力を仰ぐ「一筆」を書いてもらった。こうして、自ら手を挙げた、やる気のある若手社員が集まってきた。