マザー・テレサに感銘を受け、大学時代にインドでボランティア活動

 アジアへの強い思いは、学生時代にさかのぼる。高校生のころ、マザー・テレサがノーベル平和賞を受賞したことに感銘を受け、大学では法学部に席をおきながら開発経済も学んだ。インドやバングラディシュに赴き、現地の非営利団体でボランティア活動をしたり、政府機関を訪問したりもした。

 自分には何ができるか――とことん考えた。寄付や支援で成り立つ生活は、喜びにつながるのか。自らアイデアを出し、付加価値を生み出し、給料や配当などを分かち合う喜びの方が大きいのではないか。これを起点に、何を仕事にするかを考えた。技術力のある会社で、いい商品をつくり、新興国で儲けを出し、給料や配当を出す、こうした好循環を作り出すような仕事をしたい。こうした思いを胸に、ホンダに入社することになる。

 「創って喜び、売って喜び、買って喜ぶ」。創業者の本田宗一郎が掲げたこのモットーを、アジアの発展途上国で広げていきたいと、アジア新興国の担当部署に自ら手を挙げたのは入社間もなくのこと。欧米以外の地域を希望する社員は、さほど多くはない。入社3年目にして念願のアジア部門の配属となる。

 南西アジアの担当部署は、まさに「やりたいこと」をかなえるところだった。入社時に思い描いていた「途上国で豊かさを生み出す好循環」づくりの大切さが、仕事をするなかで確信へと変わっていった。

ホンダのフィロソフィーを教えてくれたのは、「上司の背中」だった

 これまでの道のりを尋ねると、幾度となく「上司の背中」の逸話が出てくる。

 最初は、20代に東京本社で6年間経験した南西アジア担当時代のこと。ここで後の海外赴任の基礎が築かれた。

 20代のうちからインドに単身出張し、現地の合弁会社の財務担当役員と相対した。海外企業の財務諸表を英文で読む力をつけ、合弁パートナー企業との交渉術を磨く。合弁会社はインドの証券市場に上場しており、上場に伴う手続きまで一通り学ぶことになる。

 何より、直属の課長、そして現地の社長や副社長など上司の背中から多くを学んだ。発展途上国に進出するにあたり、日本企業は現地の人を安い賃金で雇用し儲けを出している、そんな批判もされていたころのこと。自社の姿勢はその対極にあると感じた。「利益は最後でいい。少しずつ効率を上げていき、最後に利益を出して税金を納めることができればいい」。上司の言葉から、ホンダに脈々と流れる信条を感じ取った。

 その後タイ赴任を経て、37歳でマレーシアに異動。合弁企業立ち上げという厳しい試練が待ち受けていた。ここでも、上司の姿からホンダのフィロソフィーを体感することになる。

 マレーシアでは、パートナー企業が築き上げてきたものを母体として、ホンダが主導権をとって合弁会社を立ち上げるというミッションが与えられた。主導権の移行は、ときにはゼロからの立ち上げよりも、複雑で難しい交渉が求められる。販売側との契約仕切り直し、工場のホンダ側への移管など、社長以下わずか4人で手掛けることとなり、営業担当として奔走することになる。

 マハティール首相(当時)の号令下、自動車産業を盛り上げようとしてきたマレー人スタッフ、そして中華系のパートナー企業、ホンダ、と三者を融合させて一つの会社を作り上げなければいけない。ホンダの品質基準で商品を提供し続けることで、市場拡大を目指そうというのだ。

 交渉の場で本部長が先方と相対する席に同席したり、書類を準備したりするなかで、自社のメリット優先ではなく、末永く現地で愛される会社となるためにはどうしたらいいかを考えるようになる。「同じ目線に立って、相手の立場、経済的事情、面子、プライドまで考えて交渉する。あくまでもパートナーへのリスペクトの念を忘れない」ことを上司から学んだという。「そのプロセスは、人間尊重そのものだと思いました」。自立、平等、信頼にもとづく「人間尊重」、ホンダのフィロソフィーをまさに現場で体感することとなった。

 4人で立ち上げたマレーシア合弁会社は、今や従業員3600人。年間10万台を生産する会社にまで成長している。現地で愛される会社となり発展を遂げている。

「男勝りと思いきや、女性らしくてびっくり」と後輩の女性らから憧れの眼差しで見られることも多い、鈴木麻子さん。傍らは販売好調のN-BOX。