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 ところがその半年後、息子が保育園の事故により入院してしまう。田舎から応援に駆け付けた母に日中は付き添いをしてもらい、仕事が終わると病院に駆け付けた。そのまま泊まり、朝シャワーを浴びるために自宅に戻ってから出勤する日々が続いた。

 保育園の事故は、メンタルに不調をきたしていた保母によるもの。「自分の手で育てないことには、子どもを守ってあげられないのか」と落ち込んだ。母からは「仕事と子どもと、どちらが大事なのか」とつめ寄られた。

 仕事を辞めようかと葛藤を続けるなか、ある日夫が「僕が辞める選択肢もあるよね」ともらした。絹川さんにとって仕事がいかに大切か、夫はよく理解していたのだ。この一言で、何のために自分は仕事をするのかと自問自答した。

 仕事を通して社会とかかわり続けたい、お客様にありがとうと言って頂けるような仕事をしたい、やるからには100%の力で組織に貢献したい、という気持ちがふつふつとわいてきた。「仕事を続ける」と腹をくくった。1カ月半続いた息子の入院生活が終わるころには、もう迷いはなかった。

「このままでは成長がない」と、企画部門から営業へ

 育児休業から復帰後は、債券営業部門の企画を担当した。営業計画の策定、新商品の企画やプロジェクトマネジメントなどを手掛け、ことあるごとに「絹川さんに頼んだら何でも大丈夫」と言われるほど社内で信頼を築いた。部下10人ほどを抱える課長となり、この分野のプロフェッショナルとして道を究めようかと思い始める。

 そんなある日、常務取締役から呼びだされた。
「もう一回、営業をやってみないか」というオファーだった。ちょうどそのとき、子どもは小学校3年生を迎えたころ。そろそろ子育てとの両立も大丈夫ではないかと見越して、もう一度営業現場で力を発揮してはどうかという提案だ。しかも部長職に抜擢するという。「今さら営業に戻れるのか」という思いが一瞬頭をかすめたが、一つ上のポストにチャレンジできることは魅力でもあった。振り返ってみるに、上司は「このままでは成長がない」とみて、あえて居心地のいいコンフォートゾーンから引き離して成長させようという親心だったのだろう。

 こうして39歳にして営業部門の部長職に就くことになる。財団や学校法人などに向けて、債券・デリバティブを営業するという初めての業務を手掛けることになった。未経験分野ながらマネジャーとして結果を出さないといけない。

 まず苦労したのは、ナンバー2である2人の部下が、優秀なのに仲が悪いことだった。もしも業務に精通していれば、抑え込むこともできたかもしれないが、知識不足でそれは無理。そこで、2人に十二分に力を発揮してもらわないといけない。「花形部署である市場営業第一部を打倒しよう」という仮想敵をつくり、一体感を醸成。「素人の絹川が無理難題をいうから困ったものだ」と二人に結束を促すような環境をつくった。自らは、大学の財務担当者らが出席するセミナーに参加して、名刺を配って顔を売るといった営業活動に力を入れた。

 経験不足の部門で管理職となっても、部下の力を最大限引き出すようなマネジメントを行うことで結果を出す――この経験が、のちに初めてのリテール部門、初めての支店業務で支店長となったときに生かされる。マネジャーとして「どこの部署に異動しても大丈夫」という自信をつけることになった。