「俺って何なんだろう」という不安を常に抱えている?
――てらさわさんも指摘されているように、シュワルツェネッガーは『トータル・リコール』を代表として、「自分はいったい何者なんだ?」という不安を抱えるキャラクターを実はよく演じています。後の作品では、『シックス・デイ』(00年)もそうで、自分のクローンに知らぬ間に生活を乗っ取られるという映画でした。
てらさわ: そこについては僕の中に2つ仮説があって、1つはやっぱり「俺って何なんだろう」というアイデンティティーの不安が、たぶん無意識下にあったんだろうと思うんですよ。わりとトントン拍子で生きてきているので。苦労らしい苦労ってあんまりしてないんですよ。
――幼少期に父親に対するコンプレックスは、あったみたいですね。
てらさわ: でもそれぐらいでわりとその後はうまくやっているんです。まあ、運良く生きてきていて、あんまり挫折もしてないんですよ。だから「何かうまくいっちゃったけど俺、大丈夫なのかな?」という、そういったぼんやりした不安があったのではないかという。自分が誰だか分からない、というテーマにこだわったりしたのかなというのが1つの仮説です。もう1つは、よくもう1人の自分を映画に出すんですけど、それは多分「俺が2人いたら面白いだろう」と思っている!
――なるほど(笑)。
てらさわ: 多分そっちだろうと思っているんですけど。「俺が2人画面に出てきたらお得だろう」と。周りの人も、「そうですね!」という。
――掛ける2だからな、みたいな。
てらさわ: 「ギャラは1人分でいいぜ」と、多分言ったなと。
――なるほど。言ってそうですね。
てらさわ: 言ってますね。
――『トータル・リコール』を見て、確かこれ、原作がフィリップ・K・ディックだけど、シュワルツェネッガーが出てアクションしているところを見ていると全然ディックじゃないという。この不思議な感じが、他のすべての作品にも言えると思うんですけど。
てらさわ: そうなんですよ。 でも主人公が葛藤していればいいのかって、さっきも出てきた「葛藤」というフレーズ。作品の中でシュワルツェネッガーは「俺は一体誰なんだ、本当の俺は一体どこなんだ」と言っているけど、観客が彼と一緒になって悩み苦しむような感じでもない。
――そうなんですよね。だから観客が彼に感情移入ってするのかな、というのは疑問なんですけど。
てらさわ: そこもやっぱり重要な部分で、多分してないと思います。そうすると、果たして「感情移入」って映画にとって必要な要素なのかなと。
――エンタメ映画では登場人物に感情移入できることが重要だといわれますが、感情移入しなくても楽しいじゃん! ということをシュワルツェネッガーの映画が示してしまったという。
てらさわ: そうなんですよ! 映画におけるスリルとかサスペンスとは何かという話とか、感情移入という要素は本当に必要なものなのかとか。それがないと映画というのは立派なものじゃない、ということになるのか。そうじゃないよな、というふうに今回、本を書いてみていろいろ発見がありました。
――すごい作家性ですね。シュワルツェネッガーの存在自体が、映画の在り方を根底から揺さぶってきたという。
てらさわ: そうっちゃ、そう言えます(笑)。
(聞き手・構成/稲垣哲也)
<後編「シュワちゃん人気は“恐竜”に食われた? 実は黄金期は5年だけ」に続く>
[ 日経トレンディネット 2018年10月18日付の記事を転載]
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