最近は、VR(仮想現実)やAR(拡張現実)、MR(複合現実)など、現実に画像や映像、文字などを組み合わせる技術がゲームや展示などに応用され、話題を集めている。そんな中、能楽の会派・宝生流とソニー、大日本印刷が共同で、ARを利用した能楽鑑賞システムの実証実験を行うと聞いた。ウエアラブルデバイスを使い、能の舞台上に字幕を表示させることで、能楽鑑賞の障壁を下げるのが狙いだ。でも本当にARで能は分かりやすくなるのか……興味を引かれ、実証実験に観客として参加させてもらうことにした。
最初に宣言しておくが、伝統芸能の中でも、記者は能が苦手である。というのも、歌舞伎は衣装も舞台セットも用意されていて、演出も派手。ストーリーが追いやすい。狂言は舞台セットがない分、地味だが、ストーリーが短くてシンプルなので、理解できる。一方、能は舞台セットがない上に、ストーリーが長く、その間に場面転換もするし、登場人物もいろいろ出てくる。それなのに、ストーリーを追う手がかりは、現代人には聞き慣れないせりふに節をつけた「謡」(うたい)と、場面場面で楽器陣がならす「囃子」(はやし)しかない。だから、面や型、囃子の種類など、能ならではの決まり事をあらかじめ理解していないと、全然ストーリーについていけないのだ。「分からなくなった……」と思っているうちに睡魔が襲ってくる。恥ずかしながら、過去3回見に行って、3回とも船を漕いだだけだった。だからこそ、ARには並々ならぬ期待をして参加したわけだ。
なお、この日の演目は「土蜘蛛」。和紙でできた蜘蛛の糸を投げ放つ有名なシーンがある代表作で、私も一応知っている。上演時間は1時間弱といったところである。
「土蜘蛛」は、武者たちが巨大な蜘蛛の精を倒す話。土蜘蛛が蜘蛛の糸を投げるシーンは、謡も囃子も盛り上がる。能の中ではストーリーが分かりやすく、演出も派手な部類だとは思う(撮影:伊東祐太)
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謡やお囃子の意味をリアルタイムで表示
開演前に、ソニー製のメガネ型ウエアラブルデバイスを渡される。AR用デバイスとはいえ、サイズは一般的なメガネとほぼ同じ。かけてみると、ほとんど違和感がない。これなら1時間でもかけていられそうだ。ただ、メガネをかけている人は使えないのだろう。事前の案内にも、コンタクトレンズでの観劇が推奨されていた。
メガネ型のウエアラブルデバイスをかけて観劇する。レンズの横、ツルの部分に小型のプロジェクターが内蔵されており、受信した解説文を字幕としてレンズに投影する仕組みだとのこと(撮影:シバタススム)
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ウエアラブルデバイスをかけてみると、視界の下の方に緑色の字幕が見えた。ウエアラブルデバイスには小型の通信装置がぶら下がっており、無線LANで能楽堂後方に設置されたノートパソコンとつながっている。上演中、ストーリーが進むのに合わせてスタッフがパソコンで解説文の送り出しを指示すると、観客のウエアラブルデバイスに解説文が表示されるという仕組みだ。
ウエアラブルデバイスで見える字幕のイメージ。人間の目で見ると、実際はもう少し視界が広くなるので、字幕も舞台にかからない位置に見える
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さあ、上演が始まった。登場人物が橋掛かり(舞台袖の渡り廊下のようなところ)を歩いて舞台に向かう。字幕には、先頭から登場人物の名前や説明が表示された。そのとたん、「これはいい!」と思った。普段、能を見る前はパンフレットなどであらすじを読んでおくのだが、登場人物はカツラもメイクもしていないので、慣れない身にはどれが誰やら分からない。だが、こうして説明してくれれば、事前に読んだあらすじと今、舞台にいる人物が誰か結びつく。
登場人物や「地謡」と呼ばれるコーラス隊の方々が謡をうたい出すと、その意味が表示される。誰が誰に何を命じているのか、何を考えているのかがよく分かる。特に記者が感激したのが、囃子の解説。「これは場面転換を表す囃子。山に移動します」「これは時間経過を表す囃子。夜になりました」というように囃子自体の意味が表示される。前述のとおり、能には舞台セットがないので、場面転換が分かりにくい。こうして囃子の意味を教えてくれれば、ストーリー展開についていけるではないか。
しかも、観劇中も想像以上に邪魔にならない。字幕が表示される場所は舞台の下、前に座っている観客の頭にかかるような位置だ。レンズの透過率も85%あるということで、3Dムービーのように視界が暗く感じることもなかった。歌舞伎のように、観客席と舞台に距離があったり、舞台セットが派手だったりするとどうなるか分からないが、比較的小ぶりで、舞台上もシンプルな能では、字幕が舞台の邪魔になったり、逆に背景が字幕と重なって字幕が視認しにくかったりすることもほとんどなかった。
最後には、「土蜘蛛」という物語に暗に込められた意味や当時の世相などの解説も表示された。なるほど、土蜘蛛ってこういう話だったのか……かくして、記者は最後まで寝ずに能楽を堪能した。能を見るのは4度目にして、初めての経験。ちょっとした達成感である。
若き宗家が語るARが能に合う訳
観劇後、宝生流第二十世宗家の宝生和英氏に、ARを使った鑑賞システムに取り組んだ理由を聞いてみた。従来からある解説ツールと比較したメリットとして宝生氏が挙げたのは、導入の手軽さだった。
能楽の解説ツールとして代表的なのは、音声でリアルタイムに解説してくれるイヤホンガイドだ。ただ、能はせりふを節にのせて伝える音楽性の強い芸能。イヤホンで耳をふさぐのは邪魔になる。また、国立能楽堂では前の座席の背面に小型液晶画面を埋め込み、字幕を表示する座席字幕システムを導入しているが、こちらは舞台と字幕が同時に見られない。「設備投資費や維持費がかかるので、中・小規模の能楽堂では導入できないのも難点」と宝生氏は言う。
この点、今回使用したAR鑑賞システムは、字幕を見ながら舞台も見られる。パソコンとウエアラブルデバイスで実現できるので、「どこにでも持ち出せるのもいい」(宝生氏)。能楽には元々、屋外で演じる「野外能」という文化がある。加えて最近では、大使館や海外などに呼ばれて演じることも増えたので、場所を選ばないというのは重要な要素だそうだ。
宝生流第二十世宗家の宝生和英(かずふさ)氏。室町時代から続く能楽の名門、宝生家に生まれ、東京芸術大学音楽学部邦楽科を卒業後、宗家を継承した(撮影:シバタススム)
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今回の実証実験は、能の初心者向けに謡や囃子の意味を解説するものだったが、宝生氏は「狙うのは初心者だけではない。様々なアイデアを盛り込み、いずれは能にアドオンする新たなコンテンツにしたい」と語る。「例えば、外国語の字幕をつけて、外国人の観客に対応するのは第一歩。ほかにも、能への精通レベルに応じて、観客が自分に合ったコンテンツを選べるようにもしてみたい」(宝生氏)。初心者に適した解説があるように、能上級者に適した解説もあると考える。さらに、舞台上に昔の能楽堂を仮想的に再現するなどの演出も、ARなら可能だ。このような使い道を実現できれば、能の魅力を既に十分知っている能上級者にも、能の新たな楽しさを提供できると考えている。
相撲や美術館のガイドシステムにも展開
AR鑑賞システムの設計を担当した大日本印刷、ウエアラブルデバイスを開発したソニーも、幅広い活用を考えているようだ。例えば、相撲のようなスポーツへの展開。「日本語が分からない外国人に相撲の決まり手などを解説できる」(大日本印刷ABセンターマーケティング本部市場開拓ユニットITビジネス開発部の近藤孝夫氏)。現状の無線LANを使ったシステムでは、20~30のデバイスしか同時接続ができないなどの課題があるため、通信方式などが課題になりそうだ。また、スマートフォンやタブレットなど、手元の端末と1対1でつなぎ、美術館のイヤホンガイドを置き換えるなどの用途も想定している。
「せっかくのARなのだから、画面下に字幕を出すだけでなく、人から吹き出しが出るなど、より自由なレイアウトはできないのか」とも聞いてみた。ウエアラブルデバイスを開発したソニーセミコンダクタソリューションズ新規事業部門SIG事業室ソフトウェアマネジャーの岩津健氏によると、顔認識技術などを使えば実現自体は可能だそうだ。「ただ、システムの負荷が高くなったりメガネが重くなったりする」とのこと。どんな機能をどこまで盛り込むか。実用化に向けての検討課題はまだ残る。
それだけに、「実証実験は継続していきたい」と宝生氏。まずは、定期的に行っている公演に取り入れるのが目標だ。「最初はウエアラブル目当てでもいい。より多くの観客に能を見てもらうきっかけにしたい」(宝生氏)。収容人数500人程度の能楽堂は、新しい技術を試す企業にとってもいい実証実験の場なのだという。だからこそ、企業とも積極的に協力して「能楽自体に新たなイノベーションを起こしたい」。二十代続く能の名門の若き宗家は、涼やかに笑いながらそう意気込みを語った。
かつては任天堂の3Dゲーム機「バーチャルボーイ」で遊んだり、最近も恋愛シミュレーションゲーム『ラブプラス』を楽しんだり、元々、デジタル分野に強いと宝生氏。ソニーのウエアラブルデバイスを選んだのも、「性能や使い勝手はもちろん、見た目がスタイリッシュだったことが大きい」という(撮影:シバタススム)
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(文/平野亜矢=日経トレンディネット)
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