後継者がいない…

 「昭和40年代、青森県内には100人ほどのイタコがおりました。しかし、イタコの世界は高齢化や後継不足で、現在、正統なイタコは6人だけになっています」

 八戸在住の郷土史家、江刺家均(67)は、イタコ社会が直面する状況をこう明かす。江戸時代から継承されてきた正統なイタコの場合、松田広子の代より下の後継者がいないというのだ。

 イタコの発祥の歴史は、実はよく分かっていない。江刺家は、死者の霊魂を呼び寄せる「口寄せ」自体は、縄文時代から存在したのではないかと推測する。

 ここ南部地方で活動するイタコの場合、室町期後期、下北半島を治めた八戸南部氏が、霊場として恐山周辺を整備すると、修験者に混じって「お山参り」をし始めたのが始まりだという。修験者(山伏)がイタコをめとることも多かった。そのため、修験道とイタコとの間には強い親和性がある。

 こうして修験道の修行の体系や経文の要素などを取り込んで、独自の口寄せの技を確立したのが、江戸時代に「太宗婆」と名乗ったイタコであった。太宗婆はその後、山伏・鳥林坊の妻で盲目の「高舘婆」にイタコの技を伝承。高舘婆以降、イタコは目の不自由な女性の生業になっていく。目が見えないので口伝で技法が受け継がれていった。

 その昔は麻疹にかかって、失明する子供が多かった。東北では、そうした子供でも食べていけるようにと、親や親族が師匠となるイタコを探して、弟子入りさせていった過去がある。

 明治初期には津軽と南部を合わせて、イタコを名乗る盲目の女性が500人はいたようだ。真正のイタコであることを証明する場合、一人前になる時に師匠から与えられる「オダイジ」と呼ばれる守り筒がその証拠になる。松田も口寄せの際には紐でくくったオダイジを背負う。

口寄せで使用する数珠とオダイジ

 こうして見ると、イタコ社会は、社会的弱者の受け皿として機能してきた側面がある。だが、1970年代以降は、麻疹ワクチンの定期接種が実施され始め、麻疹の罹患率が劇的に減少。「イタコになる条件」を備えた女児の絶対数が減っていることもイタコが後継難にあえぐ原因となっている。

 余談になるが、伝統仏教の尼僧(庵主)の世界も同様だ。伝統的な尼僧の多くは元は捨て子やネグレクト児である。尼寺に引き取られた女の子は、そのまま尼僧になって寺を継承していった。

 だが、近年は社会保障制度の拡充などによって、そうした児童が「イタコ」や「尼僧」になることはない。同時に高齢化が進み、継承が難しくなってきているのだ。イタコも尼僧も「絶滅危惧"職"種」なのだ。

 日本に現存する6人のイタコのうち、全盲は昭和40年代に恐山デビューした中村タケひとりだけである。元来、眼の見えないイタコは、微かな音や空気の揺らぎ、におい、気温や気圧の変化などを敏感に感じ取る能力を備えるとされる。呪文を唱えながら、第六感を研ぎ澄ませていく。すると、「仏」や「神」、「祖霊」がイタコに乗り移り(憑依し)、死者の言葉を伝えるのだ。

 「昔の盲目のイタコは強い霊力を持ち、驚くような事実を言い当てていたケースもあったようです」(江刺家)

 5代目南部イタコ林ませは、特に「当たる」と評判の、伝説的なイタコだった。林ませは教派神道の出雲大社教の教えを受け、現存するイタコ全員を育てたとされる。松田は林の弟子で、南部イタコの6代目にあたる。幼い頃、病弱だった松田は、よく母に連れられて林の元を訪れ、お祓いを受けたのがイタコの世界に入るきっかけとなった。

 八戸ではイタコのことを「かか様」と親しみを込めて呼ぶ。市内では、半世紀ほど前までは町内に1人はイタコがいたという。地域の寺院や神社のように、イタコはごく身近な存在だった。だから、畏れられる存在というより、「地域の母親」としてイタコは愛され続けた。