筆者の地元、京都の三条から五条にかけての鴨川の畔はかつての処刑場で、将門はじめ数多の武将の首が刎ねられ、さらされた。死肉を求めてカラスが空を舞い、腐臭が辺りに漂った。

 だが、時を経て現在では、鴨川のせせらぎと、京都らしい町家建築物が見事に調和。うっとりとさせられる風情を漂わせ、川辺にカップルが等間隔に寄り添う。そこは数百年前、確かにかつての処刑場であった。当時は無念の思いが込められた"霊魂"も漂っていたかもしれないが、時空が変わればそんな、怨霊のようなものは微塵も感じられない。

 京都市内を歩けば非業の死を遂げた者達の墓が多数残る。首塚も点在する。「本能寺の変」の後に討ち取られた明智光秀や、大坂夏の陣で自刃した豊臣秀頼などの首塚などだ。しかし、今ではよほどの歴史ファンでなければ、手を合わせに訪れる者はいない。

14人の不審死と強化ガラス

 ところが、将門の首塚はどうだ。 忘れ去られるどころか、度々"生々しい"話が今なお、持ち上がる。近代に入っても「祟る」との噂が絶えないのだ。

 将門塚のある大手町は明治以降、政治、経済の中心として発展した。節目節目で大規模開発が計画され、その都度、首塚を撤去しようとする動きがみられた。だが、施工主や工事関係者が事故や病気に見舞われるなどした。そうした災禍は「将門の祟り」とされてきた。

 例えば、戦前、この地で行われた旧大蔵省の建設時のことである。大手町は明治時代、官庁街であった。当時、将門の首塚は大蔵省の中庭にあったが、関東大震災で省舎が崩壊した。そこで首塚の場所を更地にし、その上に仮庁舎を建設する計画が持ち上がった。

 仮庁舎の工事が進む最中、時の大蔵大臣・早速整爾が急死する。さらに大蔵官僚や工事関係者ら14人が続々、不審な死を遂げたという。

 「工事関係者が続々と不幸な目にあうのは、首塚を荒らしたからに違いない」

 そんな噂が瞬く間に広がり、結局、仮庁舎は取り壊されることになった。首塚は復元され、再び祀られた。

 次なる「将門の祟り」は、それから20年以上が経過し、戦後のことである。GHQの関連施設の工事の際に、首塚を撤去する計画が再燃した。

 だが、その際にも重機が横転し、運転手らが死亡する重大事故が起きた。またしても将門の怨霊説が流れ、GHQの計画は白紙に戻った。その後も、何かと不慮の事故と将門の祟りが結び付けられ、都市伝説として定着していく。

 そして21世紀。再び、この地が都市開発の時期を迎え、将門の祟り伝説が蘇ってきたのである。だが、今回は計画当初から首塚に手をつけようとはしなかった。果たして三井物産は将門の祟りを恐れ、開発対象から外したというのだろうか。

 ちなみに首塚がある大手町1丁目界隈の公示地価は、1平方メートルあたり2500万円(2017年公示地価)を下らない。経済合理性を考えれば、首塚を移転し、商業用地に転用するのが自然かと思われるが、三井物産やディベロッパーはそうは考えなかった。

 筆者は三井物産の建て替え計画が始まった頃、同社の担当者に対し、建て替え工事で、将門の首塚の扱いをどうするかを聞いた。その際、担当者はこのように述べた。

 「神聖な場所であり、再開発には組み込まない。特段、将門の祟りを畏れてという訳ではない」

 現在、将門の首塚は、工事の粉塵や落下物が落ちてこないようにするために、強化ガラスで覆われ、保護されている。関係各社は再開発と「祟り」とを結び付けたがらないようだが、「将門の祟り」を気にしている様子であることが、ありありと感じ取れた。