実は、私には秘策があった。ポケットにコンビニエンスストアやドラッグストアなどで使えるクオカードを持っていたのだ。私の自宅の近くには薬局を併設したコンビニがあり、そこで何度もクスリを買っている。東京マラソンは東京のど真ん中を走るわけだし、必ずやこのクオカードで胃薬をゲットできるはず…と信じていた。
25km付近だろうか、コース沿いに大手ドラッグストアチェーンの看板を見つけた。たしかこのチェーンならクオカードが使えたはずと思い、藁をもつかむ気持ちで私は店舗に駈け込んだ。
私:「急に胃が痛くなってしまったので、クスリを下さい」
店員:「それなら○○○はどうですか?」
私:「ではこれで…」
とクオカードを差し出した瞬間、白衣を着た女性店員は申し訳なさそうに言った。
「神対応」に救ってもらった
店員:「あいにく、当店ではクオカードが使えません…」
一瞬、気を失いそうになるが、何とか堪えて懇願した。
私:「見ての通り、私はマラソンを走っている最中で現金を持っていません。ゼッケン番号を控えてもらってもいいし、携帯電話の番号も教えます。明日必ず払いに来ますから、何とかクスリをわけてくれませんか?」
店員:「あいにく、そういう処理はできません…」
この店員さんに何の非もない。ただ、その機械的な対応に気持ちが折れそうになった。もう、諦めるしかないのか…。ところが女神はいた。後ろから声をかけてくれる女性が現れたのだ。
女性:「私が払いましょうか?」
私は信じられなかった。見ず知らずの中年男性(しかも汗だくだ)のために、お金を払ってくれる人がいることを。しかもよく見ると若くて、綺麗な女性じゃないか!女性はクスリを飲むために、常温のミネラルウォーターを店の奥まで取りに行ってくれた。冷たい水だと、胃に刺激を与えてしまうという配慮からだ。
こんな「神対応」をサラリとやってのける人がいる。そんな神々しい女性にマラソンレース中に出会えた軌跡。その事実に私はただ、驚いていた。
結局、水代も含めて総額は1280円だった。後日お礼がしたいので、連絡先を教えてくださいと何度もお願いした。ただ、「そんなつもりではないので…」と女性は微笑んだままだった。私は申し訳ない気持ちや、これで痛みから解放されるかもしれないという安堵感から、(いつも以上に)顔はしわくちゃだったに違いない。丁重にお礼を申し上げ、私は店を後にした。

コースに戻っても、すぐに走ることはできなかった。痛みが残っていたからではない。気持ちが高ぶって、息が整わなかったからだ。でも、もう立ち止まっていられない。助けてもらったご厚意に応えるためにも、何としても完走しなければならない。たとえ胃の痛みがぶり返したとしても、クスリを飲んだ私には強い気持ちが戻っていた。
浅草の雷門で江戸通りを折り返し、再び銀座を目指す頃には気力は回復していた。不思議なもので、元気になると顔を上げ、周囲を見渡せるようになった。沿道で応援してくれている人々の顔は皆、笑顔だ。これこそが東京マラソンの凄みと感じた。他の大会に比べて、沿道からの応援は一桁多いと言えるだろう。
スタートから30kmを超えた辺りからいつものように足も痛んできたが、今回は全くと言っていいほど気にならなかった。
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