(前編から読む)
熱心に家族の介護をしていた人が、ストレスに耐えかねて自分の連れ合いや、親を殺してしまう“介護殺人”。それは確率の問題で誰にでも起こりうること――。だが、裁判所からメディア、そして会社や周囲の人々も含め、理解はいっこうに広がっていかない。
前編に続き、2016年放映の「“介護殺人”当事者たちの告白」の制作を指揮し、これを再編集した書籍『「母親に、死んで欲しい」: 介護殺人・当事者たちの告白』に携わった、日本放送協会(NHK)大阪放送局報道部(報道番組)の横井秀信チーフ・プロデューサーと、松浦晋也氏の対談をお送りする。
(構成:編集Y)
横井:「こんな状況を放置すべきではない。だから何とかしましょう」となるべきなんですが、実は全然なっていない。会社でもそうですし、今の介護保険制度もそうだと思うんです。何かこう、何とか継ぎはぎしているような感じになっているというか。
松浦:それは、「介護」ということに向き合うのを社会の大半が忌避しているから、ですよね。自分の問題としてあんまり考えたくない。じゃあ自分はどうだったんだ、と、介護がいざ始まる前の自分の心理状態を振り返ると、やっぱり考えたくない。それどころか、母親が認知症だなんて認めたくない、回復してほしい、なんですよね。そう思えば思うほど、敗け戦に近づいていくわけですが(「『事実を認めない』から始まった私の介護敗戦」)。
横井:私は、父はもう亡くなって、母親がこの間75歳になったばっかりなんです。なので、松浦さんの本はすごく読んでよかったなと思います。この本は、お母様の認知症に気付かれたところから順を追って、どういうふうにお母様が変わられ、それによってご自身の精神状況とかお仕事がどう影響を受け、ストレスを溜めていったかということが克明に書かれている。
こういう言い方は本当に失礼かもしれませんけれども、松浦さんの置かれた状況に自分も入っていって、「こうなったら、自分はどうするだろうか」ということを、その局面、局面で我が身に置き換えて拝読することができまして。母親とか父親の介護や認知症を心配する世代にとってはすごく響く本だなと。私、この本を兄弟にも薦めようかなと思っているんです。
松浦:今気が付いたのですが、ひょっとしたら僕は、USJにあった「バック・トゥー・ザ・フューチャー・ライド」みたいな本を書いたんだろうか。
ハハハ。介護ライド。それは恐ろしい。
横井:いや、でもそれは本当に思いました。最初に置かれた状況、母親の病気を認められない、というところから始まって、追体験、まさにライドものみたいな感じです。私も本当に、申し訳ないんですけどやっぱりお母様にこう、手を上げられたときとか、41年住んでいた家からお母様が去っていくとき、やっぱりあれは本当にもう、ぐっと刺さるものがあって、「やっぱり自分も、そういう時を迎えるんだろうな」と。母親がついこの間誕生日だったんですけど、私が何の電話もメールもしなかったら苦情が来ていたので、ああ、こんなことじゃいかんなと反省もしながら読んでおりました。
「あるある」だらけの本でした
松浦:こちらの本(『「母親に、死んで欲しい」: 介護殺人・当事者たちの告白』)も、申し上げたとおり、僕が読むと「ああ、これはある、これもあるな」という。
横井:ああ、もしかすると私たちの本は、介護の当事者の方は読み進めるのがつらいかもしれないですね。
新潮社担当編集O氏:実は、出版後に電話での反響が結構ありまして。
電話ですか。
O氏:嬉しいことに、「事件物かと思って読んだんだけど、介護で追い詰められてこうなったんだ、ということが分かった、すごく感動した」というご感想がほとんどなんですね。
これは、殺人の本なんです。確かにもう、この世で最大級の犯罪の本なんですけれども、我々はそうは捉えていなくて、「そこにどうして行ってしまったのか」を問いかけるのがテーマで、読者の方は、それをちゃんと受け止めて下さっているんだなと。
横井:今思い出しましたけど、番組の後にも、「こういう番組をやってくれてありがとう」と、介護をされている方からの反響があって、やっぱりここまでの状況になっているんだ、と改めて感じました。
実は最初、我々がこの企画で、介護殺人の当事者の方の声を聞こう、と考えたときに、「殺人を肯定しているのか」というご批判が寄せられるかもしれない、と、結構構えていたんですね。
松浦:なるほど。
横井:そこで、そういうご意見をいただいたときに、どうお返事するかをかなり綿密に検討してあったのですけれど、放映後にそういう声はすごく少なくて、むしろ「ここまで追い詰められている状況が、この世の中にたくさんあるんだということを知った。やってくれてありがとう」という声をいただいたんです。
見方を変えれば、これは、それぐらい介護の辛さが、社会の中で共有されてないという思いを、介護されている方は抱いていらっしゃることでもありますよね。
松浦さんの連載へのコメント欄でも、同じ印象を受けます。
横井:苦しさが共有されてない理由の一つは、やっぱり介護は、すごくプライバシーにかかわる領域で、それを酒席とか昼休みに、同僚や上司に話していいものなのかどうか。そういった心理的な壁もものすごく大きいと思うんですよ。
松浦:そうですね。男性は特に。
横井:どうやって取っ払うのか。もちろん周囲が受け止めてないということもあるし、一方でやっぱり本人にも壁がある。
自分も辛いし、ある意味で(介護は)恥ずかしいことなんじゃないか、向こうはそう思っているんじゃないか、と萎縮します。周囲も、踏み込んで聞いていいのかどうか分からない。両側で、心理的な壁がすごく厚い。
松浦:男女の違いもあるみたいですけれどね。取材を受けた中で、女性記者から取材されて、「何で周囲に話さなかったんですか」と聞かれて往生したときがあったんです。
そうそう。あの通信社の方。松浦さんにガンガン突っ込んでましたね。
松浦:「自分も父親を3人姉妹で介護して、我が儘ばかり言うから『もうお父さん、死ねばいいのに』って、毎日言っていた」とか(笑)。
横井:そもそも、介護している方の7割は女性で、それはそれで問題ですが、周囲に比較的言いやすいというのももちろんあると思うんです。けれど、男性同士でも「いや、うちなんかこうで」「うちはもう本当にこうで」と、普通に話せるようにならないと。
松浦:それは大事なのかもしれませんね。まず、普通の生活の中で介護について話すのが「当たり前のこと」になることが必要です。そうなれば自分が介護に直面したときに相談も出来るし、会話の記憶を通して、何をすればいいのかを思いつくこともできるでしょう。
1991年放映のドキュメンタリー
横井:本の最初に書きましたが、この企画の先にあった1991年放映のドキュメンタリー「NHKスペシャル 二人だけで生きたかった ~老夫婦心中事件の周辺~」。
松浦:実は私もあの番組を放送当時にリアルタイムで見てまして。――バブル崩壊の直後…30年近く前になるのか―― 強い衝撃を受けました。認知症になった66歳の妻を介護していた77歳の夫が、遺書を残して故郷の近くに旅に出て、入水自殺をする……。
横井:あれはNHKの中でも語り継がれている番組でして、私も何度も何度も繰り返し見たんです。
松浦:当時取り上げたのは、あのケースがたぶんレアだという意識があったんじゃないかなと思うのですが、30年近く経って、それこそ統計的に処理できる数のところまできている。ものすごい時代の変化を感じますね。
横井:この間に人口構成も変わり、介護保険制度もできていますし、いわゆる要介護、当時は要介護という言葉自体なかったわけですけれども、要介護、要支援を入れると、今、634万人でしたっけ。今我々が直面するかなりの問題が、番組の中で既に提示されているんですよね。
松浦:大変先駆的な仕事だったんだ。
横井:ええ。私がこの番組をやるに当たって、またあらためて何度も見たんですけど、そのときに、「あ、実はやっぱりもうこの頃から分かっていたんだな、こういうことが起こるのを社会として放置してきたんだな」と思わされたんです。ずっと社会として対応しきれなかった理由は何なんだろうな、というのを、自分が制作するに当たってすごく考えさせられました。
松浦:たぶん「介護本」が基本的に売れないのと同じ理由じゃないでしょうか。「介護」という言葉に行き当たると、ふっと目をそむけちゃうんだな。自分もそうだったように。
横井:介護保険制度ができたというのはエポックではあるんですけれども。
介護保険制度自体、いろいろ欠点が指摘されていますけれど、介護から目を背けたい社会の中で、固定観念とか偏見と闘って、何とかここら辺までは持ってきた、というのが、もしかしたら本当のところかもしれませんね。
ケアマネは介護者の心の支えになれるか?
ところで、松浦さんの「介護ライド」の場合は、息の合うヘルパーさんやケアマネージャーさんが、松浦さんを精神的な面を含めてかなり支えてくれたわけですが、こういう事例は横井さんのご取材ではいかがでしたか。
横井:一概に一般化はできないと思うんですけれども、松浦さんのケースとはちょっと違うなというのは、「あのヘルパーさんがいて助かった」「あのケアマネジャーがいて話せてよかった」という人は、取材ではあまり出会えていません。これは、人材のレベルがどう、ということではなく、本当に巡り合わせみたいなところかもしれないんですけれども。
松浦さんにとっての「Tさん」のような出会いはそうはないのかもしれない。
横井:ええ。「ケアマネさんがすごくいろいろやってくれた」という方もいらっしゃるんですよ。でも、精神面の辛さまで受け止めてくれるわけじゃない。それは当たり前なんです。制度としてそうなっていて、「ケアラーをケアする」のはケアマネさんやヘルパーさんのお仕事ではありませんから。
なるほど…。
松浦:本に書いてないことで1つあるとすれば、僕は取材を仕事としています。ですから、介護をせざるを得なくなったときに、「情報を持っている人」から、本能的に情報を取ろうとした。ケアマネさんにしても、ヘルパーさんにしても、僕の感覚では取材先です。そういう態度が、ひょっとすると結果的によかったのかもしれません。
サービスを受ける側、というより、相手の話を聞く姿勢で。
松浦:説明を受けるときの僕の態度は、取材している、だったんですよね。本に出てくるKさんというヘルパーさんがたいへん話好きの方で、そういう人に集中的に聞いていったことが、結果的にはコミュニケーションを取ることになっていたのかもしれないです。
面白いですね。
O氏:ただ、これもまた個人的な相性ですよね。話をしたがらない方もいるでしょうし、ビジネスライクでないとつきあえない、という方もいるでしょう。
横井:そうですね。やっぱり、介護関係者と介護者が、愚痴も含めて言う関係にまではなかなか発展していかない。介護保険で外部の力を借りることで、介護者は、労働という意味ではもちろん楽になっているんだけれども、やっぱり心は休まらないという声が多かったと思います。
心にリーチするというのはなかなか難しいんですよね。逆に、外形的なリーチというのは、今回の取材で、僕らがちょっと驚くぐらい、されていたんです。イメージとして、介護保険を利用せずに社会的に孤立していくパターンだろうと思っていたのですが、実は大多数はそうではなくて、リーチはかけられている、ケアマネさんもいて、ヘルパーさんもいて、日常的に入っているし、ショートステイへ行ったり、デイサービスへ行っていると。
横井:行っているんだけれども、じゃあ、そこで介護者の心が休まっているかというと…絶対、公的サービスはないよりはあった方がいいんですよ。でも、介護者の方の安らぎには必ずしも直結していなかった。これも今回、大きな取材の発見ではあったんです。
松浦:難しいですね。
横井:やはり、誰にも言えず自分で抱え込むのは辛いです。隣の人とか近所の人、会社の同僚や上司に、「ああ、大変ですね、何かあったら言ってくださいね」とか言える関係になっていかないと。自分と周囲の壁を取っ払うのが、介護問題や殺人に至るルートをなくす、最初のステップではないかと思います。
こんなふうに、昼休みに普通にコメダに来て、「うちのおやじの徘徊がひどくって」「そうか~」「今度3週間休んじゃうんだけどよろしくね」「分かった、分かった」みたいな感じで会話が出来ることが。
解決策をあえて提示しなかった理由
横井:そう思うんですけどね。そうなればいいなと。社会制度を変える出発点もそこのような気が僕はしています。
この番組を作るときに、「解決策を提示した方がいいんじゃないか」と、議論があったんです。だけど、追い詰められている人にとって、「解決策はこれです」と示すことができるのか。あるいは、理想は理想として、財源や人的資源の話をしたとして、本当にストンと腑に落ちるものというのがあるのかな、と思ったんです。
もちろん、解決を諦めるという意味ではなく、それは探していかなきゃいけないんですけど、その手前の部分の、「介護される方もする方も、社会で支えていかなきゃいけないんだよ」という、その共感みたいなものを大事にしたかったので、あえてこの番組では提示しなかったんですね、例えばよくあるパターンとして、海外の例を見るとか、うまくいっている自治体の例を出すとか。
ああ、もう、すぐ思い付きますよね。
横井:そういうことも当然考えたし、これまでもいろいろな番組でやってきたんです。けれども、「じゃあ、それがなかなか現実に広がらないのはどうしてなんだ」という思いが私個人としてもあって。なので、あえて厳しい実態を伝えて、そこに「このままではダメだ」と、共感していただければ、一定の役割は果たせるんじゃないかと、制作者としては、思い上がりかもしれないですけど、そう考えたんです。
松浦:なるほど。
横井:私、松浦さんの本で、お母様との介護もさることながら、「予防医学のパラドックス」という視点から、社会の分断に対する警鐘を鳴らしているのがものすごく腑に落ちて(『予防医学のパラドックス』が教える認知症対策)。「適者生存」的な考え方は、実はまったく科学的ではないということがよく分かり、すごく勇気というか力を得るというか、あ、こういうことなんだなというのを納得しながら読ませていただきました。
松浦:ありがとうございます。病気の人に対して集中的に対策を打つより、社会全体がやんわりと努力して対応する方が、ずっと効率がいい。そう考えると、ものすごく評判の悪かったメタボ健診、あれも正しいんですよね。一人ひとりが、太りすぎない、栄養バランスに気をつける、といった小さなことに気をつければ、全体では医療費が大きく圧縮できる。でも、個人ベースに落としこむと「俺が好きな時に好きな飯食っちゃいけないのか」みたいな反応を喰らいがちです。
よく言う例ですが、社会が禁煙に動けば、周囲の人間を含めて全体の発がんリスクが下がることは間違いない。一方で、タバコを吸ってもがんにならない人がいるし、吸わなくてもがんになる人はいる。社会全体では間違いなく効果があっても、個人にとって、運が良いか悪いかだからです。
個々の人間が気をつけたら、確実に社会全体で認知症の患者は減る。けれど、特定の個人が発症するかどうかは確率次第で、「努力すれば発症しない」とは絶対に言えない。努力しても確率が下がるだけなので、結果として運が悪いと発症することがあり得る。
横井:そうですね。でも、困っている人を社会全体で支える、という正論が、きれい事じゃなく、科学的、合理的なんだというところがすごく響いて、「辛い人を生まないために、社会全体が動くのが最もコストが安い」と納得できる。これはとても支えになります。
松浦:とはいえ結局自分も、我が身になるまで分かってなかったわけです。自分の母親が介護保険を使って、毎朝お迎えの車が来るじゃないですか。そういう状況になって初めて、街中に介護関係のシールを付けたバンがいっぱい走っていることに気が付くわけです。それまでは見ていても、見ていない。意識の上にのぼってこないんです。
さらに言うと、近所に新しいアパートができたと思っていた建物が、自分の母を預ける先を探す段になって住所を見ながら行ったら、そこだったと。何かしゃれたスロープの付いた入り口だなと思ったら、それは車いすのためだった(笑)。そういう経験をしましたね。
車も、建物も、みな介護関連らしい名前を付けて、街中を走っていたり、入居者の募集をしているわけです。でも全然自分の目には見えてなかった。社会ってものすごく変わっているんですよ。でもそこに意識が向かないと全然見えてこない。この対談を読まれているビジネスパーソンのほとんどの方も、当時の私と同じじゃないでしょうか。
横井:介護関係の車や看板を見ていても気がつかない。そうですね。
松浦:嘘だと思う方もいるかもですが、本当にそうなんですよ。だから、「介護」という仕事、なさねばならぬ事業が世の中に当たり前にある、という現実を前提にして、会社も、社会も、家庭も物事を考えねばならない。
「仕事を減らす」ことに意義を見出そう
松浦:そのためにも、前回、人口減の中での経済成長を果たさなければ、ということを言いましたけれど、それだと話が拡散しすぎるので、介護離職の話に絞りましょうか。
人手が足りない中で、介護離職がそれだけ出ている。これはもう、身もふたもなく言うと、「介護なんてしているヤツは、ちゃんと働けないじゃないか」という意識が、雇用側にも、職場にもあって、それを本人も「そうだよな」と受け止めちゃっている。
横井:なるほど。
松浦:問題は、雇用・被雇用、両方の側にある。必ずしも雇用する側だけを責めるわけにいかない部分もあって、職場の周りの人間がプレッシャーを掛ける部分がありますからね。
横井:そうですね。
松浦:それでどうすればいいかといったら、介護している人を会社の側、職場の側から支える仕組みがなくちゃいけない。それはおそらく雰囲気と制度と両方だと思うんです。
それに対する反論は、おそらく「そんなことをしたら会社の効率が下がるじゃないか」というものなんですけれど、実はあらかたの日本の会社って、全然効率的じゃないですよね(笑)。
ハハハ。そうきましたか。
横井:そもそもが非効率なんですね(笑)。
松浦:特に大きな職場で働いていると、「仕組みとしての面倒くささの上に自尊心が乗っかっている」みたいなところがあるじゃないですか。この面倒な仕組みの上に乗っかって俺は何かをしている、みたいな自己満足感が。
横井:なるほど。
松浦:最近ネットで、就職に当たって履歴書を手書きで書かせる会社ってどうなんだ、というのがありましたよね。
横井:はい、ありましたね。
松浦:私は「手書きはいらんだろ」と思うんですが、支持派は「いや、心がこもっている」と言って、読みにくい手書きの履歴書を支持するわけです。自分には手書きを支持する人が理解できないです。「やらなくてもいいことはやらない」「同じ成果が出るなら、仕事は減れば減るほどいい。減らしたヤツは偉い」という形の効率アップができないと、これから会社はどんどんだめになっていくのかもしれないなと思います。
前回、小澤先生(「『自分の絶望を分かってくれる人』がいますか?」)との対談でも出ましたが、人生の100%を会社に捧げるのも、介護に捧げるのも無理です。でも、例えば4割と6割ずつならば、両方を同時に回すことは可能かもしれません。
まず、隣人の話を聞くことから
横井:介護の話をしてきましたけれど、介護者が置かれている状況は、育児とまったく同じなんですよね。
松浦:その通りです。育児ですらようやく社会的に意味と負担を認められつつある状況で、介護はまだまだ特殊なものと思われて、目を背けられていますよね。
育児よりもさらに辛く、精神的なリターンが期待しにくい分野なのに。
横井:携わる人たちの大変さが、社会の中で共有されてないからそういうシステムができないんだと思うんですよね。最初は、我々自身が隣の同僚の「育児」「介護」の負担を普通に聞き、助けられるところは助ける。そこからではないでしょうか。
松浦:はい。その通りだと思いますし、そこにこちらの番組や、本の意義もあるんだと思います。
この記事はシリーズ「介護生活敗戦記」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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