横井:介護の最初の時期は、例えば1年前に会った母さん、父さんの姿とあまりに違うということにすごくショックを受け、「あんなに立派だったお父さんが」ということで認められない感情がすごく出てくる。しかも、困ったことがあっても、「どこに行って誰に相談したらいいのかも分からない」から始まって、というのはもう皆さん本当に共通していらっしゃる。

松浦:介護の問題は「どこに行く」というのが思いつかないんですよね。

横井:ええ。松浦さんが「困ったら、まず地域包括支援センター(「『ん? ひょっとして認知症?』と思ったら」参照)」ということを書かれていましたけれども、センターに行くのがある種、コンビニに行くみたいに当たり前のことにならないと、こういうことは今後もずっと起きるんじゃないかと思います。

松浦:私はその典型例で、介護の矢面に立っていると全然外部の力を借りる発想が思い付かない。一方、ちょっと外れたところにいる人、私の場合は弟だったのですが、そういう人が「兄貴、なぜ支援してもらわないんだ?!」と気が付くわけです(こちら)。「ちょっと外の人」がないと、「介護保険」は知っていても「それを自分が使える」ということすら気づけなくなっちゃうんですね。

横井:いや、私も実は読ませていただいて本当に驚いたのがそこです。科学技術ジャーナリストで第一線に立っておられる方でも、当事者になるとそういう発想が出てこないという。

松浦:出てこないんですよね。

横井:本当なんですね、なぜなんでしょうか。

松浦:おそらく、普段から「介護をすることになったら」と考えていないと、出てこないんですよ。ところが、普段は考えたくないから考えない。

 介護に直面し、支援を仰ぐようになって初めて「世の中にはこんなに、介護関連のサービスが存在するのか」と気がつくんです。別の世界だと思い込んでいるから目に見えない。だからいざとなっても考えつかない。

 ところで、この本は十いくつかのケースを掲載しています。中には、老老介護のように私の実体験とは違うパターンのケースもあります。パターンによる違いは何か感じましたか。

横井:老老の場合は、よく言われることではあるんですけれど、男性は、仕事のように介護に取り組む。介護をある種、看病と同一にとらえて、「自分が頑張れば明日はよくなるんじゃないか、明後日はよくなるんじゃないか」と考えてしまって、きちっと事業計画的にプランを立てて、「この日はリハビリに連れていこう、この時間は散歩にしよう」とかやっていく。でも、すぐに現実とそぐわなくなってきて、介護する側もされる側も、ものすごく負担感を感じるようになる。

松浦:よく分かります。

介護保険には、介護者を救う意識がない

横井:女性ですと、男性よりは自分の辛いことを外の人と共有できる、発散できる、というイメージがありますけれど、まじめな方は、辛く感じるのは、自分が至らないからだと考えて、「当たり前の、誰でもやっていることなんだから、外に言うというのはよくないんじゃないか」とため込んでしまうケースが多かったと思います。

 一方で若い世代は、介護によって自分の社会的な、経済的なつながりが失われていく。例えば仕事を辞めなきゃいけなくなって、でも同僚とか同級生は本当にみんな働いているわけですね。そこでの孤独感、そして収入もなくなるという不安感。そういう社会的、経済的な厳しさが増していくのが、介護殺人に至る経過に大きく影響しているように思えました。

松浦:なるほど。「看病」的な意識って、もう自分もまったくその通りです。介護する側には、普通の病気みたいに「自分が面倒を見ればよくなるんじゃないか」という期待感があるんですよ、それが、現実に裏切られ、ストレスがいや増していく、というのはもう本当にその通りでした。

横井:これはもうよく言われることですけれども、介護保険制度自体が、介護される方のためのもので、介護する方を支えるという思想がそもそもないので。

松浦:ええ。ない。しかし、介護する側を支えないと、される側は共倒れになるんですよね。そこはもう自分自身、何回も「ここで自分がつぶれたら母親と共倒れだな」という危機感を何度も感じました。でも、意外と社会は、「介護する側」のケアを忘れているんです。

松浦さんが踏みとどまれたのは、「これ以上やったら、自分がつぶれて、お母様も」というところに気が付けたこともあるのでしょうか。

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