小澤:例えば松浦さんが親の介護をしていて、でも仕事をしないといけない。それで私が、「ああ、分かる、分かる、あなたも大変だよね」ともし言っても、お前、本当に分かるのか? となるわけです。だってお前は介護してないじゃん。親も元気だろう? お前なんか何も分かってないんじゃないか、と思われちゃうんですね。

松浦:理解しようとしてもダメ、でも、相手には理解していると思われねばならない。

小澤:はい。その人の苦しみを他人である私が理解できるかといったら、できないはずです。だって本人じゃないから。なので、主語を変えるんですね。主語は私じゃなくて相手なんです。相手が私を理解してくれる。これだったら可能性があるんですね。

―― ええっと…。

小澤:苦しんでいる人、まさに当事者。ここでは松浦さんであったり、あるいはYさんであったり、誰かであったりします。苦しんでいる人は、自分の苦しみを分かってくれる人がいるとうれしいんです。

―― はい、それはよく分かります。

小澤:先ほどのご経験ですよね。では、「分かってくれる人だ」と、苦しんでいる人が自分を理解してくれるためには、何が必要なのか。それは説明ではなく、解説ではなく、聞くこと。聞いてくれる人であること。この「聞く」って、行為自体は簡単だけど、実はすごく難しいんです。

「分かった」と感じた瞬間に…

―― いわゆる「傾聴」ですか。聞くだけなら簡単そうですけれど…

小澤:いえ、難しいのです。だって相手を「理解した」と思ったとき、人は人の話を聞かなくなるんです。

―― うっ。「ああ、分かりました」と思うと、相手の言葉を聞かなくなる。そうするとそれは、相手に伝わる、と。

小澤:だからこのあたりが難しくて、分かってくれる聞き方というのがあって、その聞き方にこだわって、仕事をしているんですけれどね(参考:小澤先生の近著『死を前にした人に あなたは何ができますか?』)。

松浦:真の理解だとかといって詰めないわけですね。「分かったと思ってもらうこと」が重要である。

小澤:「私」は主語にしないんです。 

松浦:自分が分かるとか理解するとかが問題なのではない。「分かってくれる人がここにいた」と相手が思うことが核心なんですね。

小澤:そうです。なぜかというと、私がどんなに分かったつもりだったとしても、相手から見て分かってくれなかったらそれは援助になり得ないんです。逆に、医療関係者でもなんでもない掃除のおばさんが、偶然、同じ病気と闘った経験があって、患者さんの家族が「分かってくれた」ら、それは素晴らしい。そういうことです。資格の有無ではない。その分かってくれる人に対して信頼が生まれる。

―― そうか、私を泣かせた後輩君も、自分で挑戦して失敗した経験があったのかもしれないな…。