小澤:簡単に言うなよ。お前らに俺の気持ちが分かるはずがない、でおしまいでしょうね。仕事での失敗でもそうなるでしょうし、まして、死に直面して、「いままでできていたことが、だんだん出来なくなっていく」と感じている方に、励ましなど無力です。

松浦:よく、そういう方に向き合おうと思われましたね。

小澤:理性的な説明や感情的な共感、同情、励まし、それらがまったく通じない中で、もし残るとすれば、最初(第1回参照)に申し上げた「自分の苦しみを分かってくれる人」であることしか、実はないんです。「この人は分かってくれる」と思っていただくのは至難です。本当に戦場に素手で戦いに行く感じですね。弾がびゅんびゅん飛んでいる中で、何の武器も持たずに進んで行く、そのくらいの感覚じゃないと、看取りの仕事はできないと思っています。

 でも、必ず方策があるんです。たったひとつ、「分かってくれる」と思ってもらうには、繰り返しになりますが、「支え」、その人が大事にしてきたものを丁寧に聞いていくしかない。

松浦:その、「支え」とは、患者さん自らに気がついてもらうために探すんですか。

小澤:実は、私の発想は逆なんですね。当事者が、相手に対して「分かってくれる人だ」と思ってもらうこと、これが重要なんです。そのために「支え」を見つけ、理解することが欠かせません。

人は他人を完全に理解することなどできない

小澤:松浦さんがおっしゃったように、苦しんでいる人が苦しみを通して気が付くということは確かにあります。健康なときには気が付かなかった庭の咲く花に、病気になって、あ、分かったと、それも確かにそうなんです。

 そして、それとは別に「誰にも言えない、理不尽な目に遭っているという苦しみを、俺は誰も分かってくれないだろうと思っていた。ところがある人が現れた。「あ、この人は分かってくれた」と思っていただくことで、「ある人」は、苦しんでいる人の支えになることができるんですよ。

 死を前にした人に、私は何ができるか。励ましも通じない、説明も通じない、限られた時間の中で、もしかするとわずか1回か2回しか会うことができないかもしれない。その人に何ができるかといえば、私が“相手から見て”分かってくれる人になることなんです。私はそうなりたいんです。

松浦:そこをもうすこし詳しく教えていただけますか。

小澤:はい。まず、自然科学というのは、主語は私なんですよ。もっと言えばデカルトです。「我思う。ゆえに我あり」、つまり主語は私で、明晰な判断ができる私であれば、目の前のものに疑いはない。宗教的な束縛から離れ、合理性、理性を拠り所にしようとする、自然科学の出発はデカルトだと思うんです。

 ところが、私の仕事では、どんなに頑張っても、私が他人である相手を100%理解できるわけがないんです。

松浦:そうですよね。