小澤:医療の分野では、今、患者やご家族と接する立場の人間を育てるという教育は、ほとんど行われていません。教えるのは診断と治療のみなので、「どのようにケアをして、どのように困難を抱えながら生きていくのか」ということに関しては、ドクターからのサゼスチョンはあまり期待できないかもしれない。もちろん、それが間違いではないんですけれども、病や老いとの戦いがある生活、と考えたときには、実際には足りないでしょうね。

松浦:身体の客観的な状態は学べても、主観的な気持ちの問題については実は触れられてない。

小澤:最初に申し上げた「苦しみを抱いたまま、穏やかな理由」は、認識論なんです。私が学んできたのは。「このコップはコップに見えるけど、本当にコップだろうか」、そういう哲学の考え方がありますよね。

 唯識とか、フッサールとかが出てくるやつでしたっけ…。。

小澤:はい。認識論と本質論と言うんです。たとえばお茶碗がある。これは瀬戸物で、重さが何グラムで、比重がいくつで、そういう事実ですね。ここにもし『ゲゲゲの鬼太郎』のおやじがいたら、お茶碗ではなくて「お風呂」に見える、と。現象学的にはそういう発想をするわけです。

 見る側によって同じモノでも認識が変わる。

穏やかに死を迎えられる人になるために

小澤:看取りを行う際には、認識ということにすごくこだわるんです。普通は、「死ぬ」というのは怖いことなんです。忌みであり、絶壁であり、絶対避けるべきもの。ところがその死を前にして、ある人は幸せであり、ある人は穏やか。それには理由があるんです。それがその人の「支え」だ、と私は表現しています。

松浦:支え……ですか。

小澤:私は、自宅での看取りができる医療関係者の育成をしているのですが、例えば、病院ではなく、自宅にいて、そばに家族がいて、自分が大事にしてきた人生のいろいろなことをちゃんと子供たちが分かってくれて、そして自分がもしこの世を去ったとしても、自分が大事にした人生の教訓を、子供たちや孫たちがちゃんと守ってくれる。そう確信できたらどうでしょう。

 今まであった身体の痛みが治療で和らぎ、大好きな庭の花が咲く姿が見られて、病院では制限があったテレビの音とか音楽の音も今は家では自由に聴けて。

 まさしく、自分の気持ちが「分かってもらえた」と感じられるでしょうね。

小澤:そういう、一つ一つの細かな、その人を支えるところにこだわっていきたいんですね。

 それを実現できるのは決して医療職だけじゃないんです。患者さんにかかわる全員が、支えになることができます。たとえば、その人が実は高校時代はバレー部で、インターハイに出たぐらいすごい選手だった。高校時代のインターハイの話をするとすごく穏やかになる。それができるのは中学の同級生。同じ年でもうじいちゃん、ばあちゃんなんだけれども、その同級生たちが来て昔話をするとすごく笑顔になる。そんなふうに。

 ……。

小澤:松浦さんのお母さんで言えば、穏やかになっていただく1つの条件として、茨城で生まれ、土浦で育った当時のお話、大好きだった海軍軍人のお父さんに付いて全国を回って、特に思い出深いという逗子から横須賀に通った時代。そういうお話がいいかもしれません。