平川:近代化のプロセスの中で、どんどん生身の身体を遠ざけるというのか、感じなくて済むような形へと科学も技術も進歩していった。だけど、そのバリアを突破しないと介護はできない、というところがあると思います。疫学者の三砂ちづるさんに言わせると、「下の世話をしていない介護は介護じゃない」そうですが、僕もやっぱり下の世話が始まったときからが格闘の始まりでした。

松浦:そうですね。もうその通りですね。

平川:松浦さんは、お母さんの失禁に立ち向かわれた。

平川さんは、お父様には摘便までされましたが、そこで「母だったらできなかっただろう」と書いておられますね。

平川:いや結局、そうなればやったとは思いますよ。逃げ場はどこにもありませんからね。でも、松浦さんは本当によくやられたな、と。

 松浦さんも本でお書きになっているように、介護に関してはみんなケースが違うんですよね。だから一律には語れないんだけど、だけど、介護を通して感じることは、みんな同じなんですよ。だから、みんな違うんだけど、みんな分かり合えるところがあるという。

松浦:介護は全部が異なる体験だけれど、経験者は同じ感想や考えを持つ。それは戦争体験と似ているんじゃないか、ということですか。

平川:戦争が破壊の中で終わるように、介護というのは、ゴールが病気の快癒じゃないわけですよ。ゴールはもう死しかないわけですよね。一生懸命介護している相手の死によってしか終わらない。

 介護の最中、親の病室を出て、病院から出るとそこに呑川があって、川の上に立って、タバコでも吸いながら川をずっと見ていると「いったいこの日々はあとどれだけ続くんだろうか」と、呆然とする気持ちになるんですね。

松浦:ええ。

平川:ちょうど僕と同じ年の親友が、同じ病院で2カ月の間に両親を亡くしたんです。僕と同じく、母親が先に、次に父親を。彼に「自分の親を看ている間に、そういうふうな気持ちになったよ」と言ったら、「俺もそうなんだ、まったく同じだよ」と言うわけですよ。

「計画が立たない」ことに現代人は慣れていない

平川:考えてみると、我々は人生の中で、「まったく予定の立たないこと」をする経験が基本、ないわけですよ。何らかの計画が立てられて、自分でもある程度制御できるのが当たり前で。ところが、親の介護、まったくあれだけはコントロール不能で、明日何が起こるか、全然分からない。

松浦:その通りですね。朝起きてみたら、どうなっているか分からない。

平川:そう。それがすごく大変だと思うんですよね。

しかも、状況が改善することは基本的には……

平川・松浦 ない。

無責任な立場でお聞きしますが、その辛さは、「穴を掘ってただ埋める」といった無意味さに似ているのでしょうか。

次ページ 介護のために、別居しちゃいました