バスの車中は半分程度の席が埋まっています。10年以上前に初めて高速バスで帰省したときは、疲れるわ、飽きるわでさんざんで、二度と乗らないと思ったもの。しかし、現在、料金は新幹線に比べたら半額以下。「もし、母の面倒を見るために頻繁に帰るようになったら」と考えると、ここで試しておくのもいいと思って久し振りに使ってみました。

 バスは3列シートで前の席、隣の席と距離があり、クッションが分厚く、深くリクライニングするしレッグレストも装備。乗り心地も記憶と違ってほとんど揺れず。そしてなにより2000年前後との大きな差はネットワーク環境です。モバイルルーターを持ち込めば、かなりの山間部でもちゃんと電波が届き、いささか驚きました。コンセントはない(USB電源が用意されていました)けれど、所要時間は5時間なので、ぎりぎりノートパソコンの電池が持ちます。仕事の連絡をして原稿を出稿し、休憩のサービスエリアで地元の方が作っているおこわで昼ご飯、などとやっていると、本当にあっという間に故郷のN市に到着。今後を考えると、これはうれしい誤算でした。

 高速バスを降りて路線バスに乗り継ぎ、母が一人で住むマンションへ。
 「おかえり」と笑顔で迎えてくれる母の顔は思っていた(恐れていた)よりも元気そうです。仏壇で父に挨拶し、お茶を飲みつつ四方山話をしました。「会話のリズムが合わなくなってきた」「新しい話題がほとんど出てこない」「おかんメールのような聞き違い、言い違いが多い」と驚いたのは、もう20年以上前からのこと。できるだけゆっくりはっきり話しかけて、返事をポジティブに、と心がけるくらいは慣れたものです。

 洗濯物を外に干すのを面倒がって、ハンガーで鴨居に釣っているのを最初に見たときは驚きましたけれど、これも慣れてしまえば、まあどうってことはない。それに限らず家の中がなんとなく雑然としているのも、帰る度に「うーん」と思いますが、それも、もともと几帳面ではなかったからこんなものか…。

 と言う具合に、意識すると「あれ?」と思う点はいくつも出てくるけれど、それが危険なシグナルなのかどうかの判断は、とても難しいと改めて思いました。

「見るところ、探す言葉が分かっているかどうか」で大違い

 故郷の高校の同窓生で、そのまま地元の医学部で医師をしている友人が、最近親御さんを介護施設に入れたと聞き、ちょうど連載開始のころだったので「なにかこう、“認知症だ”と判断が付くような方法ってないの」と電話したことがあります。

 彼の返事は「それはその人の日常を知らないと難しい」でした。「一緒にいて、普段と違うところが出てくる、という形じゃないと『おかしい』かどうかは判断できないんじゃないかな」。

 とはいえ、御母様と一緒に暮らしていた松浦さんは、日常であるがゆえに小さな変化に気づきにくかった、あるいは、無視しても構わないのではと判断したわけです。

 突き詰めて言えば「なにか症状が出ているんじゃないか」という前提を持って「ここを見よう」という意識で注意しないと、前駆症状に気づくのはなかなか難しいように思います。

 でも、今回は話し方も応答も別に気になる点はないし、運動も、週一でお寺の太極拳に行ってるっていうし、取り越し苦労だったのかな。そんな楽観で締めくくろうと思ったとき、ふと視界の隅に、積み上がった茶色い小箱が。