父との出会いは見合いだった。

 なぜ父を選んだのかと聞くと、「会社で、上役にへいこらへいこら、米つきバッタみたいに頭を下げている情けない男ばっかりみていたからよ。お父さんに会った時、この人なら、誰にもへいこらしそうもないと思って、それで結婚する気になったの」という返事だった。

 その父はといえば、頭を下げるどころか、相手が誰であろうとバカと判断すると直接「お前はバカだ」と言ってしまうタイプであって、結婚後の母はそんな父のせいで結構苦労することになるのだが……まあそれは別の話である。

 「とにかく、へーんなところだったと思うわよ」というのが、丸の内の大企業勤めを振り返る母の感想であった。

 以上の話は2006年に、私が当時エルピーダメモリの社長を務めていた坂本幸雄氏をインタビューして『エルピーダは甦った』(日経BP社)という本を上梓した際に、母にしたインタビューに基づいている。同書には「匿名丸の内OLの話」として上とほぼ同じ文章が収録されている。今回は60年を経たということもあり、三菱電機を初めとしていくつかを実名にしつつその後判明した誤りを修正し、かつ当時のメモに残っていた内容をいくらか補った。

母よ、あなたは…

 ところで……母が会社で読んでいて叱られた「現代世界文学全集」だが、その41巻、ノーマン・メイラー著「鹿の園」には、当時の母の給与明細書が挟まっていた。ということは、会社で読んだという小説はこれだった可能性がある。

 給料袋には827番という社員番号が押してある。何年の5月かは分からないのだが、支給額1万2210円、天引きが合計で1780円。その他に前月や次月への繰り越し端数というものがあって、手取りは1万600円。

 ここで気になるのは、明細の地方税の欄に「4月5月は徴収せず」と捺印してあることだ。見つかった状況と合わせると、これはひょっとして新入社員の年の5月の給与明細ではなかろうか。すると「7800円ぽっちしかもらえなかった」という母の証言は勘違いということになる。

 実はこの給料袋の裏には、母の文字で「Mr. yamadaから¥2000、合計¥3000」とメモしてあるのだ。手取り1万600円から3000円を引くと、7600円……

 母よ、もしかしてあなた、3000円ばかり借金をしていて、それを返したら手取りが7600円だか7800円だった、という記憶になったということではありますまいな。それで“ケチビシ電機”という悪口はちょっとひどいと思うぞ。

 もう本人に聞いても、「忘れちゃった」としか答えてくれないのだけれど。