「認知症の人は自分が変化していくことに不安を感じているのだから、むやみに行動を否定するのではなく、寄り添うようにする」というのが認知症患者に接する基本なのだ。しかし、始終ストレスにさらされているとそのような柔らかい態度を取ることが極度に難しくなる。それどころか、感情的になって怒鳴ることが多くなる。

 不安を抱える認知症患者は、怒鳴られればますます不安になって、情緒不安定になり、さらなる問題を起こしたりする。悪循環だ。

 つまり、認知症に対する対応としては、「早期に、介護する側に過大なストレスがかからない体制を構築する」ことがなによりも重要になる。ひとりで介護、あるいは少人数の家族で介護する限り、ストレスは避けられない。だから介護側の体制が薄ければ薄いほど、素早く公的介護保険制度を利用した介護体制に移行する必要がある。

 何人もの家族で介護ができる場合も、公的介護保険制度の利用は必須だと思った方がいい。認知症の症状は進行するし、疲労は蓄積する。介護を続けながら蓄積した疲労を解消することはそう簡単ではない。最初から疲労が最小限になる体制を組むことで、介護する側だけでなく介護される側も快適に過ごすことが可能になるのだ。

介護する側が楽をしないと、介護される側も不幸になる

 このように考えていくと、認知症の介護とは、介護される側もさりながら、介護する側の問題のほうがより大きいことが見えてくる。

 病気の主体は間違いなく介護される側――私の場合は母――にあるのだが、全体としてその病気とどのように付き合っていくかは、介護「する側」をより集中的にケアしなくてはならないのだ。「私が犠牲になって頑張ればいい」では、介護する側もされる側も不幸になる。

 介護される側と同等、場合によってはそれ以上に介護する側をケアする必要がある――この事実は、あまり広く認識されていないようだが、考えてみれば当たり前で、介護する側が倒れてしまえば、自動的に介護される側の生活は立ち行かなくなるのである。

 母が公的介護保険制度による介護を受けるようになってから、介護の専門家と会話する機会が増えたが、彼らは1人の例外もなく、このことを明確に理解していた。

 何度となく「あなたが倒れたらお母様も不幸になるのですから、可能な限り楽をして、介護を続けられるようにしてください。私達はそのための手伝いをしますから」と言われた。

 「可能な限り楽をする」という言葉に、「安楽に介護をするつもりか」「手を抜くつもりか」と敵意を向けてはいけない。実際に介護の矢面に立ってしまうと「安楽な介護」はあり得ない。また「手を抜く」ことも難しい。手を抜くことはすぐに介護される側のQOLの低下を意味する。

 QOLが下がることを承知の上で手を抜くというのは虐待である。普通の感性ではできない。しかしながら介護する側にかかるストレスがあまりにひどくなると、虐待ということもあり得る。

 だから、公的介護保険制度を使って、“介護をする側が楽をできる仕組み”を作って行くしかないのである。

 最後に。

 2015年の正月、母の状況が容易ならざることを実感した妹は、甥姪3人を連れてドイツから帰国して、母と共に過ごした。

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