私たちは、子供の頃から大人になったら自立するものだと教えられ、それを当然と思って育つ。そして老人は“大人”の範疇に入っている。

 敬老精神とは別に、私たちは「大人は自立するもの」と思っていて、であれば、老人も自立するものと思い込んではいないだろうか。そして自立できなくなった老人は家族が面倒を見る。老人の面倒を見るところまでが、大人としての自立である。

 昨今の生活保護不正受給に対するバッシングを観察するに、私たちは平均的に、意外なほど自立を重んじる潔癖な意識を持っているように思える。そんなメンタリティのもとで「公的介護制度に頼ろう」という発想は、無意識のうちに自立を損なうものとして忌避されてはいないだろうか。

 体験して初めて分かったことではあるが、認知症老人の介護は、自分が頑張りさえすればなんとかなるような甘いものではなかった。介護をやり遂げるには、「公的介護制度をいかに上手に使い倒すか」という戦略性が必須だった。老人の介護は、本質的に家庭内に収まらないのだ。「いや、基本的に家庭が介護すべきだ」という意見の方は、実情がよく分かっていないのだと、私は思う。

介護保険を使うことは、誰恥じることのない権利

 介護保険の利用は、権利である。自分でなんとかしようとせずに、自分の負担を減らすために積極的に頼り、利用するべきなのだ。でなければ、自分が倒れてしまい、介護そのものが成立しなくなる。最悪の場合、介護殺人か、道連れ自殺かという結果に至ることすらある。

 殺人や自殺までは行かなくとも、時折報道される虐待は、介護する側にかかる極度のストレスが原因だ。介護保険は、介護する家族のストレスも軽減する。自分が虐待する側にならないためにも、公的な制度の利用は必須なのである。

 それは決して「楽をする」とか「制度にただ乗りする」ということではない。繰り返しになるが、介護は本質として家族と公的制度が連携しないと完遂できない事業なのだ。

 もちろん、介護事業者が商売として過剰なサービスを売り込むこともあるかもしれない。家族や業者がよかれと思う支援が、介護される側にとって本当に嬉しいかどうかという問題もある。国の財政に介護費用が甚大な影響を与えているのをどうするんだというご意見もあろう。

 だが、まず介護する側がストレスで倒れたり死んでしまえば、GDPへの貢献もなにもできない。個々の議論はさておき、介護する側が権利を行使することには、誰からも後ろ指を指されるいわれはない。

 前回書いた2015年4月9日の転倒により、母は新薬臨床試験への参加というチャンスを逃してしまった。が、この転倒により、一気に公的介護の導入が進むことになったのだから、“禍福はあざなえる縄のごとし”という他はない。

 鍵は弟だった。

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