そして2015年4月9日、木曜日のことだ。

 夕刻に東京の仕事から帰宅すると、母は顔に大きなあざを作っていた。右手にはこれまた大きな擦り傷が出来ている。

 母の上前歯はずいぶん以前からブリッジとなっていたが、それが外れていた。慌てて何が起きたか聞くと「転んだ」という。

 家にはこの時13歳の老犬がいる。その老犬を散歩させるのが母の日々の日課だった。その散歩との途中で転んだのだった。

手の内から逃げていったチャンス

 そこから傷の手当てと歯医者通いで大変なことになったのだが、次の週に認知症の主治医のところで新薬の臨床試験に参加するための健康診断が入っていた。これを逃すわけにはいかない。

 結論を書こう。転倒により、母の認知症の症状は一時的に悪化した。折悪く、そのタイミングで健康診断を受けねばならなかった。その結果、母は長谷川式認知症スケールの診断で、臨床試験被験者に必要な点数を下回ってしまい、被験者からはずされてしまった。

 「この新薬は、アルツハイマー病の進行を抑える薬なので、ある程度以上症状が進んでしまった患者には投与しても意味がないということで、被験者から除外することになっているのです」とA医師からは説明された。

 掴んだと思ったチャンスは、あっけなく消え去ってしまった。

 それでも、後から思えばこの時は、私が帰宅するまで「自分が転んだことを覚えていることができた」だけ、アルツハイマー病の症状は軽かったのである。その後の症状の進行につれて、母はついさっきのことも覚えていることができなくなっていったのだった。

 毎度出しゃばってすみません。担当編集者Yです。軽い気持ちでお願いした連載でしたけれど、内容の深刻さが増すに連れ、我が田舎の母が心配になり、そして「よくこの状態で、『宇宙開発の新潮流』を初めとする執筆が続けられたなあ」と、松浦さんの書き手魂におののいております。

 介護を初めとする「ぽたぽた溜まっていくストレス」にどう抗するかは、ビジネスパーソン、いや、大人すべてが考えておくほうがいいテーマになっていると思います。今回の松浦さんの原稿を読んで真っ先に思い出した記事がありますので、直接、介護とは関係していないのですが、ご紹介させて下さい。精神科医の計見一雄さんへのインタビューで、自分のストレスチェックができる「カナリア」チャートも付いています。特に最近、よく眠れていない方はぜひ。

お父さんが『眠れない』のは、心の問題ではない」(EXPRESS X)