「アルツハイマー病の根治薬開発はことごとく失敗して、今はこれ以上症状を悪化させないことを目的とした薬の開発に焦点が移っています。そんな新薬の中のひとつです。効いたとしても治りはしないのですが、それでも受けてもらえますでしょうか」とA医師は言った。

 新薬の試験は被験者の半数に新薬を、半数に偽薬(プラシーボ)を投与する。だから臨床試験に参加したとしても、新薬が回ってくるかどうかは確率1/2だ。また、当然のことながら副作用の危険性もある。が、どうせ打つ手のない病気ならば、ここは母と自分の運に賭けてみるべきだろう。

 私はすぐに「臨床試験参加に同意する」とA医師に答えた。横で母は、きょとんとしていた。実際の試験は夏になるということで、4月に入ってから準備のための健康診断などを受けることになった。

 いいぞ、新薬の試験にひっかかるなんて――この時、私は大きな総合病院に母を連れてきたのは“当たり”だったと感じていた。

神経が焼ける感覚、ついに幻覚が

 通院を開始した2015年2月には、母は生活のすべてを私に頼るようになっていた。

 最初はなんとかなると思っていたが、3月、4月と徐々に自分に尋常ならざるストレスが掛かっていることが実感できるようになった。

 まず眠りが浅くなり、よく眠れなくなった。

 眠るために寝酒をするようになったが、これは失敗だった。アルコールは睡眠の質を悪くする。ますます疲労がたまり、その一方で酒量が増えていった。

 後頭部には、なにか神経が燃えているような不愉快な感覚が張り付いた。感情的になり抑えきれない怒りがすぐに吹き出すようになった。こうなると母との言い争いも激化する。激化することでますます神経の疲労が溜まった。

 アンガー・マネジメントというものがある。怒りを自分で制御する心理学的技術のことだ。「人間が衝動的になるのは数秒のことだから、衝動が起きたら行動に移すのを6秒待つように自分を条件付ける」とか「なになにすべき、と思わない」「イライラは書き出したり点数化して客観化する」といったことを行う、といったものだ。ウェブの記事や書籍がたくさん出ているので、目にされた方も多いだろう。

 しかし、自分が体験した範囲内で言うなら、いざ介護のストレスにさらされてから、これらを実行するのは至難の業だ。

 なにか新しいことを始めるというのは、それ自身がストレスだ。ぎりぎりまでストレスがかかっている状態で、「アンガー・マネジメントの訓練を」と言われても出来るものではない(少なくとも自分はそうだった)。

 本当に情けないことだと思うが、自分にとって「やさしさ」とはすなわち心理的余裕のことだった。

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