(前回→「家事を奪われた認知症の母が、私に牙を剥く」)

 2015年2月に、母は正式にアルツハイマー病と診断された。

 診断が確定すれば、次は治療だが、現在、アルツハイマー病を根治できる薬は存在しない。過去30年に渡って世界中の製薬会社が根治薬の開発を試みてきたが、これまで成功した事例はひとつもない。

 2002年には、脳内に蓄積するアミロイドβを“溶かす”ワクチンが開発されて臨床試験まで行ったが、死者まで発生する副作用が出て開発は中止となった。

 ただし、対症療法の薬はこれまでに数種類開発されている。脳の萎縮を止めることも戻す事も出来ないが、残った脳細胞をブーストして意識をはっきりさせる薬ならある。

 母は、エーザイの発売している「アリセプト」(商品名)という薬を処方された。アルツハイマー病ではもっとも一般的に使われている薬だ。アリセプトは1997年に発売された、世界初のアルツハイマー病の薬である。逆に言うと、それ以前はアルツハイマー病と診断されても、なにも打つ手がなかったのだ。

 アリセプトの薬効成分は、ドネペジル塩酸塩という物質である。

 神経細胞は末端からアセチルコリンという物質を放出し、隣の神経細胞に刺激を伝達する。しかしアルツハイマー病では脳内のアセチルコリン量が減少する傾向がある。そこでドネペジル塩酸塩は、アセチルコリンを分解する酵素のアセチルコリンエステラーゼの働きを阻害し、脳内のアセチルコリン量を増加させる作用がある。

幸い、薬への副作用はなかった

 アリセプトは最初1日3mgの投与から初めて、副作用が出ないかを見極めつつ、徐々に薬量を増やしていく。服用したからといって、アルツハイマー病は治らない。しかし、意識をはっきりさせて日常生活への支障を減らすことはできるのである。どこまで“今までに近い生活”を続けることができるかは、ケースバイケースだ。短ければ数カ月だが、うまく薬が効けば1年以上に渡って見た目の症状の進行を抑えることができる。

 毎朝、朝食後に母に薬を飲ませることが私の日課となった。

 母は最初「薬なんか必要はない」と抵抗したが、とにかく「ちゃんと飲んで」とお願いして飲ませる。徐々にではあるが、薬への抵抗はなくなっていった。

 大変ありがたいことに、母は薬に対しては一切副作用が出なかった。最終的には複数の薬剤を投与の上限まで服用することになったが、それでも悪影響はなく、丈夫な体というのは、こういう時に役に立つのだな、と、母の父母、つまり祖父母に感謝した。

 それだけでなく、病院に行ったことで母はひとつのチャンスをつかんだ。

 主治医となったA医師から「新薬の臨床試験に参加しませんか」というオファーを受けたのだ。アルツハイマー病の進行を止める新薬の開発が、全世界3000人規模の臨床試験を行う最終段階に入っており、その割り当てが病院に来ているのだという。

本連載、ついに単行本化。
タイトルは『母さん、ごめん』です。

 この連載「介護生活敗戦記」が『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』として単行本になりました。

 老いていく親を気遣いつつ、日々の生活に取り紛れてしまい、それでもどこかで心配している方は、いわゆる介護のハウツー本を読む気にはなりにくいし、読んでもどこかリアリティがなくて、なかなか頭に入らないと思います。

 ノンフィクションの手法でペーソスを交えて書かれたこの本は、ビジネスパーソンが「いざ介護」となったときにどう体制を構築するかを学ぶための、読みやすさと実用性を併せ持っています。

 そして、まとめて最後まで読むと、この本が連載から大きく改題された理由もお分かりいただけるのではないでしょうか。単なる介護のハウツーを語った本ではない、という実感があったからこそ、ややセンチな題となりました。

 どうぞお手にとって改めてご覧下さい。夕暮れの鉄橋を渡る電車が目印です。よろしくお願い申し上げます。(担当編集Y)