(前回→「その名は『通販』。認知症介護の予想外の敵」)

 体感的に、ストレスと心の関係は、コップに水を入れる様子に例えることができると思う。

 介護する者には、様々なストレスがかかる。前回書いた通信販売との戦いや、回を改めて書こうと思っている下の世話などは大きなストレスだ。これらのストレスでコップはどんどん満杯に近づく。が、それ以外の小さなストレスもある。日常的な家事から発生するストレスだ。

 ひとつひとつは大したことはない。いつもならやりすごすことができる小さなストレスである。

 しかし、ストレスを溜めるコップが満杯に近くなっていると、そうはいかない。ほんの小さなストレスでも「いま、このストレスがかかったら、自分が壊れる」と感じるようになる。満杯近いコップは、ほんの少しの水でも溢れるかもしれないのだ。

掃除、料理を自分で引き受けたら…

 認知症の症状の進行と共に、少しずつ母は、日常的にこなしていた家事を私に譲るようになった。気が付くと放棄していて、私がやるようになったこともあったし、「もう駄目、私できない。あんたやってちょうだい」と宣言して私に譲ったこともあった。

 最初は掃除だった。
 もともとは私は自分の起居する部屋だけ掃除していた。仕事絡みの書類が散らばっているので、母にいじられたくなかったからだ。

 それが認知症の症状が出始めたあたりから、母は掃除を放棄するようになった。そこで仕方なく私は、居間の掃除から始まって、徐々に担当する範囲を増やして行かざるを得なかった。

 母は、自分の部屋だけは私にあれこれ手を出されることを嫌がり、「自分でやるから放っておいてちょうだい」と主張していた。とはいえ、どうも掃除している様子もなく、あるところで私は「これはしばらく掃除もせずに、ホコリだらけの部屋に寝起きしているな」と判断した。

 そこで、嫌がるのを無視して母の部屋を掃除したところ、嫌になるぐらいの大量のほこりが掃除機の中に溜まった。

 これはいけない。こんな環境で寝起きしていては体調を崩してしまう。

 自業自得と切り捨て…てはダメだ。なぜか。母が体調を崩せば、その看護の負荷は自分に回ってくるからだ。こんな調子で、家全体の掃除が私の日常の仕事となった。

 あるいは日々のゴミ出し。母と私、気が付いたほうがやっていたものが、いつの頃からか私がやるようになった。

 三食の食事も然り。母の調理が危うくなり、味付けもさりながら、火の始末ができなくなったのだ。気が付くと、ガスコンロのすぐ横に乾いた布巾が無造作に置いてあるという状態になっていて、私はまず台所の大掃除をした。調理用具や食器の配置を変えられたのが、母には面白くなかったらしく、大分文句を言われたが無視した。かくして台所の主権は、私に移った。

 しかしその後、母はなにかと旧宗主国のように台所を検分するようになった。

本連載、ついに単行本化。
タイトルは『母さん、ごめん』です。

 この連載「介護生活敗戦記」が『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』として単行本になりました。

 老いていく親を気遣いつつ、日々の生活に取り紛れてしまい、それでもどこかで心配している方は、いわゆる介護のハウツー本を読む気にはなりにくいし、読んでもどこかリアリティがなくて、なかなか頭に入らないと思います。

 ノンフィクションの手法でペーソスを交えて書かれたこの本は、ビジネスパーソンが「いざ介護」となったときにどう体制を構築するかを学ぶための、読みやすさと実用性を併せ持っています。

 そして、まとめて最後まで読むと、この本が連載から大きく改題された理由もお分かりいただけるのではないでしょうか。単なる介護のハウツーを語った本ではない、という実感があったからこそ、ややセンチな題となりました。

 どうぞお手にとって改めてご覧下さい。夕暮れの鉄橋を渡る電車が目印です。よろしくお願い申し上げます。(担当編集Y)