(前回から読む)
『母さん、ごめん。』の著者、松浦晋也さんと、NPO法人「となりのかいご」の代表理事、川内潤さんが、松浦さんがお母さんを介護した現場である、ご自宅で「会社員の息子が母親を介護する」ことについて、語り合います。他人事ではない担当編集Yも絡みます。
Y:松浦さんは「身も蓋もなく、まずはお金」と言っていましたが(「父の死で知った「代替療法に意味なし」」)、お金があっても、精神的には追い込まれてしまうものですか。
川内:リテラシーがなければ。基本的な知識のない状態で、パニックになってばたばたと「とにかく、整った施設にいれないと」と動いたことで、要介護者のご本人が納得も安心もしないまま、施設で鬱々としていらっしゃったり、ご家族もその姿を見てやっぱり辛かったり、その姿を「もう見ていられない」と、別のご兄弟が契約解除をして戻したり、というケースもあったりします。
松浦:それでは、単に親を押し付け合っているのと変わらないでしょう。
川内:そうです。おっしゃる通りです。介護のリテラシーがあれば、「いやいや、それはまだ在宅でこういうサービスもあって」と一拍二拍置くこともできる。先にお話に出ていますが、「人から食事や排泄の世話を受ける」ということを、ご本人の気持ちが受け入れる準備をつくっていく期間というのも実はすごく大事な時間ですし。
お金があっても、そういう知識や配慮がまったくなくて、「ああ、本人はもうわけが分からなくなっているから」と、とにかく施設に入居させて、髪の毛だって丸坊主で全然構わない、というご家族も現実にいらっしゃるのです。母親の髪の毛を整えることにお金を払って、何の意味があるのか、という感覚を持っているということです。
でも、そのご本人はもう毎日のようにオードリー・ペップバーンの写真を見ていらっしゃって、「いいなあ」という表情をされているわけです。だからご家族に、いや、丸坊主というんじゃなくて月に1回でいいから訪問理容を。1000円、払っていただいたらご本人はきっと喜ばれると思うんですよ、とお伝えするのが介護のプロなんです。
Y:その介護者の方は、母親という安全地帯を失って、拗ねて、怒っているようにも思えますね(※第3回「男性必読!貴兄が母親に辛く当たってしまう理由」参照)。
「介護? 有休あげればいいんだろ」は愚策
川内:ええ。そういうふうに「線を引く」ことで右肩下がりになっていくお母さんを見ない、見ずに済む、と考えてしまう人もいるんだなと。そう思うと、介護というフェーズに入っていくときの気持ちの持ち方は、とても大事なことなんだなと思います。
松浦:組織としての企業側が、そこまで理解するのは相当難しそうですよね。
川内:はい、難しいです。すべての企業さんが介護支援に対して前向きであるわけではないですし、施策を一生懸命やっているふうに見えるんだけれども、でも実は中身が全然伴ってないケースもあって。
川内 潤(かわうち・じゅん)1980年生まれ。老人ホーム紹介事業、外資系コンサル会社、在宅・施設介護職員を経て、2008年に市民団体「となりのかいご」設立。2014年に「となりのかいご」をNPO法人化、代表理事に就任。ミッションは「家族を大切に思い一生懸命介護するからこそ虐待してしまうプロセスを断ち切る」こと。誰もが自然に家族の介護に向かうことができる社会の実現を目指し、日々奮闘中。
例えば「うちは365日介護休暇を取れます」という施策をばんと打ち出して、マスコミも取り上げているんだけれども、実際に使っている人はほとんどいない。もしくは、それを使う人はもう辞める準備に入っている。これだと、もう何のためのこの制度、施策なんですかということになるわけですよね。
松浦:だいたい、何日か休めば片が付くかといったらそうじゃないことが多いので……。
川内:おっしゃる通りです。休暇だけでなく、ありがちな悩みや疑問に寄り添って、仕事とどうやって両立するのがいいかを一緒に考える、ソフト面のケアが一緒に付いていないと。ある意味、「休暇はやるから自分でなんとかしろ。ただし、社業に迷惑だけはかけるな」と、無策に休ませてしまうことが一番よくないかもしれません。
松浦:本格的に介護体制に入ったら、社業に迷惑、かけないで済むわけがないです。済んでいるなら、本人が体と心を酷使しているはずです。
Y:前の対談でホスピス医の小澤先生が「介護はプロジェクトマネジメントの発想が必要。ガントチャートなどを用意するべき」と仰っていました(「『自分の絶望を分かってくれる人』がいますか?」)。
実は、会社で介護関連の窓口になる人は、ちゃんとリテラシーを持っていて、「これはもう不可逆の進行だよ、家族に任せるというのは選択としてはあまりお勧めできないよ、代替案としてはこういうのがあるよ、だいたいこれくらいの期間が、介護体制の構築に取りあえず必要だ」みたいな感じで、おおよそのメドを見せてくれるんじゃないか、なんとなくそう思っていたんですけれど……。
川内:現状ではまだ難しいと思います。基本は制度があっても自己申告で、しかも申告する側にリテラシーがないから、何をしたらいいのかが分からない。
Y:ということは、企業の総務なり人事の人が使うマニュアルがいるんですね。パターン別にチャートを用意して、「あなたはこれを用意しておきなさい、こういう学びをしてくださいと、意識改革もこれぐらいやってちょうだいね。その上でこういう支援策が受けられます」と、全体感と具体策、そして、その企業が用意する「介護戦線シフト」と組み合わせて、仕事と介護のいちばんいい両立のバランスを探る。
企業は介護戦線のロジスティックスを支援せよ
川内:そうです。実際に体験してきて、そこに絶対に乗せねばならないのは、繰り返し言っていますが「家族が介護することが最善ではない」ということ。介護休暇取得は大いに結構ですが、それを、直接自分がおむつ交換をすることに使うとか、毎日一生懸命その認知症の方に寄り添うことに使うことがベスト、とは限らない。ゼロにする必要はないんだけれども、相談にパワーを使うことが大事です。
Y:相談ですか。
川内:そうです。介護保険の使い方、休暇の取り方、だけじゃなくて、仕事をどうするかについて、会社は相談に乗るべきだし、介護者は相談するべきです。そういうことにちゃんと予算を割いてくださる会社さんは安心なんですけれど……介護休暇の制度だけを用意して、お仕事はそこまで、としている人事、総務の方もたくさんいらっしゃるので。
松浦:そうはいっても、介護の相談は話すほうも、聞く方も覚悟が要りますからね。
川内:はい。その通りです。総務や人事の担当の方にしても、人の介護の話に踏み込むということは、その方のパーソナリティーに相当食い込んでいくわけですから、怖いですよね。でも、私がお伝えするのは「専門的なアドバイスができないのは当然ですから気にせずに、とにかく、話を聞いて、こちらにつないでください」です。分からなくてもいいから、とにかく聞く。介護のために会社を辞めたいと言われたら、「いや、もうちょっと考えましょうよ」と引き留める。
で、私につないでもらったら、そこからその方のお気持ちを、どこが今は一番大変ですか、誰が今は一番気持ちがつらくなっていると思いますか、というところから、少しずつご本人の気持ちもフォローをしていきます。具体的な制度、施策と、介護者のお気持ちのフォロー、両輪が回ってないと介護の体制は始まらない、スタートできないと思うのです。
松浦:ここで「家庭のことだから」と言っちゃうと、そこでもう止まってしまうんですよね。
川内:そうです。確かに家庭のことなんだけど、でもそれも実は会社にとっても働く側にとってもすごく大事なことですから。
松浦:そうなんです。先ほど(前回参照)の「介護なんかをやっているやつは辞めてもらった方がありがたい」という考え方って、あれは代わりがいっぱいいた時代の発想なんですよね。今はそれをやったら人がいなくなってしまう。まだあまり気が付いてない人もいるみたいだけど(笑)。
川内:危機感が本当にある人、ない人、危機感がありつつも具体的な施策まで取り組めている組織と取り組めてないところ、施策を、制度を作ることに終始してしまっているところと、ちゃんと一歩一歩踏み出しているところと、すごく違いが出ると思います。たぶんここからもう10年いらないです、4~5年で大きく差が付くでしょう。マイナス面ばかり気にされますが、介護の支援を受けた社員さんの、その会社に対する感謝の気持ちって、ものすごく強いですよ。
Y:これはそうなりますですよね。
川内:一生懸命施策を打っても、なかなか社員に届いていない、という会社さんもあります。そういうところも、実際にセミナーや個別相談の事例を、匿名で積み上げていくと、「こういう対応が望まれていたのか」と気づけて、一気に浸透することもあります。とはいえ、なかなかすべての会社がそうでもないという感じです。
介護を相談=弱みを見せること
松浦:あとは企業トップの心構えかもしれません。今の日本の、特に大きい会社のトップ層って、やっぱり僕らよりもさらに上の世代、「長男の嫁が介護を背負う」ぐらいの経験しかなくて、そうなると「自助努力だろう」という発想を抜けるのが難しいだろうなと思います。しかももう自分の親の介護が終わっているから、他人事でしかない。その自分の親の介護は全部奥さんがかぶっちゃったから、介護の矢面に立った経験もない……。
Y:日本の会社員の世界って、介護を含めて家庭のことを奥さんに丸投げして、仕事と人事抗争に明け暮れて、それに勝ち抜いた人が上に行く、みたいなところがあるから、経営層は一番響きにくいグループかもしれません……これはひがみっぽいかな。
川内:ああ、そういうこともありそうです。「勝ち抜いた人たち」とのお話し合いの中で、「何で、自分の親の介護が大変だ、という話を他人に言えないんですかね」と伺ったら「いやあ、だって自分もそうやって、人が弱くなったところで足を引っ張ってきたから」と(笑)。要はマイナス要素が伝わったときにそれを使って人事権を行使してきたから、そういうふうにしてきた人間の思考回路の中には、人に介護のことを相談するということが……
Y:「あの人は介護で、まともに働けないんだよ」と、弱みを見せることになって。
川内:ええ。だから、もうそもそも、人に言う発想はないよ、という。
Y:ひえー。
川内:企業によってそこのカルチャーがそれぞれあるから、そうでない会社も当然あると思うんですけど、そこを突破していくことの難しさと、そんな中でいざ相談に来たときには、もう相当まずい状態なんだろうなとも思うのです。
企業さんにとにかく言うのは、「施策を拡充することはある程度できるかもしれないけれども、それよりも雰囲気づくり、文化づくりをそもそもしていかなきゃいけないですよね」と。そもそも、本当にダイバーシティーで考えるんだったら、働いている社員自身がもしかして認知症になるかもしれないわけです、若年性の。
松浦:若年性認知症の方は、数は老齢者の認知症患者よりも少ないかもしれないけど確実におられるわけです。その方々は現状では、ものすごい家庭の犠牲の上で介護を受けているわけですよね。
川内:その通りです。
「厄介者は死ねばいい」と、子供に言えるか?
松浦:ここまで考えると、老人の介護はひとつのきっかけでしかない。「手を差し伸べなければ生きていけない人すべての介護」ということですよね。そこで「お前は役に立たないんだから、潔く死ね」と言ってしまったら、そもそも、社会とか文明の役割って何だという話になってしまう。
川内:本当にその通りです。何のために資本主義のもと、経済活動をしていているのかといったら、大きな意味で、不幸や不運に見舞われた人でも人生を生きていける、自分も含めてね、そういう社会を作るためであって、誰かを排除するためではないはずで。
松浦:トータルとして全員が、それなり、と言っていいのかな、そういう生き方ができる社会をどうつくるかという話のはずです。これから高齢者は増えます。その中から一定の割合で必ず認知症を発症する方が現れます。ということは、今、僕らの社会全体は「それに応じてどんな社会システムを構築していくか」という課題に直面しているのではないでしょうか。
川内:おっしゃる通りです。それは国家も、会社組織も、家族も、個人もですね。
松浦:個人としてもそうですね。
川内:家族とどう向き合っていくのか、自分の親とどうかかわっていって最後はどう看取っていくのか、とか。最近強く思うのは、介護の状態になった家族に対して自分がどう接していくのかというのは、子供に伝承していくんだなということです。おじいちゃんに対して、自分の父がどうしているのかを、子供がよく見ているのですよね。
こういうふうに施設に入れて人に任せているけれど、でもお父さんってこうやっておじいちゃん、おばあちゃんとかかわっているんだ、じゃあ、僕はお母さんにどうやっていったらいいだろうということを自然に彼らは学ぶんです。
一生懸命、自分の親の介護をしている父親、母親、あるいは、亡くなられたあと、お葬式などでの両親の話や立ち居振る舞いは、絶対子供の心に残る。親の介護から「逃げない」ということは、親として残せる財産なんだな、というのを、まさに立派にそれをされている方々のお姿を見ると感じます。
Y:そういう意味では、介護離職とかは非常に辛いですね。更にいえば、社会から介護を見えなくする、隔絶することで、伝承も難しくなりますね。
松浦:たぶん歴史的には、いまなら救える人を、隔離して死なせてきた事例っていっぱいあるんでしょう。取りあえず家に寝かしておく、あるいは座敷牢に閉じ込めちゃうとか。でも、江戸時代なんかに比べれば、はるかに今のほうが生産性が上がっているわけですよ。弱者を社会で抱えていくということは、これだけ上がった生産性を、我々はどう使うかという話なんですよね。
川内:そうですね。
松浦:超高齢化社会を、ソフトランディングというか、できるだけ衝撃が柔らかく済む形で受け止めるやり方を考える場合、方法は、まず間違いなく「昔に戻ること」じゃない。いま「厄介者は死ねばいい」とかいっている人は、自分がいつまでも元気で健康であるという、根拠のない前提でものを言いながら、どれだけ現代の社会制度の恩典を受けているのかを完全に忘れています。
年老いた自分が江戸時代にタイムワープして、同じことが言えるか、あれこれ想像してみればいいと思う。知恵を尊敬される長屋の長老にはなかなかなれないですよ。多くの人は劣化した楢山節考になるんじゃないかな。「いやだいやだ」とかいって暴れながら、息子に山に捨てられるとか。
Y:うへえ。
一度は外資系コンサルに入社したのに
松浦:個人で抱えることが出来ない大きな問題は、もう、社会全体で、柔らかく受け止めていくしかない。高齢者の看取りや認知症患者の介護はそういう課題だと思います。
川内:本当にそうですね。実は私は大学の4年間で介護保険の研究をして、結局介護の仕事に最初は就かなかったんですけど、それは何でそうしたかというと、しっぽを巻いて逃げたわけですよね、これは無理だと。
松浦:それは、介護保険が制度として持たないと判断したということですか?
川内:といいますか、4年間頑張って勉強したけど、この制度の中で自分が働くのはどうなんだ、身が持たない、危ない、もっと儲かる仕事はいっぱいあるし、と思いました。実際に障害者施設に行き、特別養護老人ホームに実習に行って、そこで働いている人の実情とかを見て、「これはだめだな。財政的にもどう考えたってあんなに大盤振る舞いしたら早晩崩壊するんだろうし」と。そう自分に言い聞かせて、介護関連に就職するのをやめたわけですね。
Y:すごく妥当な決定のようにも思えますが……。
川内:だけど、社会に出てみてやっぱり思ったのは、「いや、話が逆だった。介護や障害者の現状を見ずに、社会のことを考えたり経済のことを考えたりというのは無理だ」という。知っているが故に、知ってしまったが故に、だめだこれ、と、戻らなきゃいけなくなったんです。
Y:介護を抜きにして社会のことは考えられないということですか。
川内:と思ったんですね。なぜかといいますと、これもまたすごく具体的な話で申し訳ないんですけど、私、外資系のコンサルタント会社で仕事をしているときに、人員整理をしていたことがあって、ほとんど稼働してない工場の社員さんを毎日どんどんひたすら解雇する。「子供が大学受験なんです」「関係ないです。クビです」「親が介護が必要で」「いや、関係ないです、クビです」と、非情にとにかく伝えていくというのを、24歳か25歳ぐらいのときにやったんですよ。
当時の自分の写真を見ると、とてもじゃないけどこの人は、きっと笑ったことがないし、これから先も笑わないんだろうな、みたいな顔をしているわけです。
それを毎日やっていると、過去に自分が学んだ生活保護の話とか、シングルマザーで障害の子を抱えてきた人たちの話とかのケースを分析したりしていた自分を思い出すんです。その人たちの将来というか、ここで、自分に仕事を取り上げられたその人たちのその先が多少なりとも目に浮かぶわけです。
「人員整理の話をしているより、ずうっとずっとマシです(笑)」
いったい、自分は何をしているんだろう。こんなことをするために仕事を選んだんだろうか。お金はもらえるかもしれないけど、でもこれは自分がやっていいことなんだろうかと、ついそう思ってしまいまして。「いや、この仕事はもう無理だ」と思って、介護事業をやっていた父親に土下座をして、やっぱり介護職に就かせてくださいと言って舞い戻った変なやつなんです。
松浦:それはまたきつい経験をなさったんですね。で、介護の現場に立たれてどうですか。
川内:やっぱり人と触れ合うと、ヘビーな状況にもぶち当たります。それこそ“座敷牢に閉じ込められてしまっている状態”の70代後半の女性の方がいたりするんです。それでも「これってどうしたらいいんだろう。本人にも家族にもいちばんいい解決方法は」ということに頭が使えていることの方が、上司から命令されて、「とにかくこの工場を閉めるから、今日中にこのリストの人を全員解雇せよ」という話と比べたら、全然自分にとっては、いい。まともな仕事に思えます。
長くなっちゃいましたが、松浦さんの話をお伺いしていて、「あ、社会としてやっぱり、まともな介護の仕組みは、必要なものなんだよね、正しいよね」ということを改めて思いました。自分の体験に勝手に照らし合わさせてもらうと、収入より、効率より、大事なことはあると気づく瞬間が、それぞれの人や企業、社会にも訪れるんじゃないかなと思ったりするんです。もちろん、早めのほうが望ましいとは思いますけれど。
(おわり)
この記事はシリーズ「介護生活敗戦記」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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