それで止まってくれていればまだ救われるのだが、わたしが入院している間も、母の症状は徐々に進行していった。

 11月の半ばの日曜日、母が「友達に会う約束ができたから、自動車で送って欲しい」と言った。ところが、誰に会うのかと聞いてもいまひとつはっきりしない。何度か電話がかかってきたので、たぶんそれで約束ができたのだろうと、自動車で送ったが、今度はどこで待ち合わせをするのかが、はっきりしない。

 「この通りの角かも」「こっちの喫茶店かも」と、言われるままに回ったがどこにも友人らしき人はいない。こちらもだんだんいらだってきて、「いったい誰に会う約束をしたというのか」と怒り、車中で言い争いになってしまった。

 その晩、母の様子がおかしくなった。

 うつろな目をしてソファに座り込み、何を話しかけても「うん……うん」としか答えない。日曜日の晩は、ドイツにいる妹一家とスカイプでつないで、妹や孫3人と話をすることになっていて、母はいつもその時間を楽しみにしていた。ところがこのときは、スカイプに孫が顔を出してもあまり反応がなく、向こうから妹が「お母さん、お母さん」と話しかけてもきちんと会話を返すことができなかった。

向こうの世界に行ってしまった

 妹ははじめて、事態をはっきりと認識したようだ。スカイプの後「お母さんが、一線を越えて向こうの世界に行ってしまったようだ」というメールを送ってきた。

 次の日、母は元に戻っていた。認知症の症状の出方には波があり、良いときと悪いときがある。これが最初の経験だった。

 2014年12月、私ははやぶさ2打ち上げの取材のために、種子島に赴いた。事前に母には種子島に行くことを何度も説明した。食事の支度があやうくなりつつあったので、夕食だけは夕食宅配サービスを手配しておいた。

 種子島宇宙センターでの打ち上げ前の取材が終わり、センター内を移動していた時だった。携帯電話に母からの着信が入った。

 「あんた、どこ行っているの? 今日は何時に帰ってくるの?」

 母の記憶はここまで駄目になっていたのか。私は慄然とした。

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