
(前回→「『事実を認めない』から始まった私の介護敗戦」)
人生を存分に楽しんできたはずの母に、認知症の疑いが生まれた。さんざん目を逸らしてきたが、いよいよ事実かどうかを確かめねばならない。「病院に連れて行かなくては」。
…といっても、まずどの病院のどの診療科につれていくかを調べなくてはならない。
幸い、妹の友人に認知症専門医がいたので、まずはメールで相談をするところから始めた。どの診療科にかかるのか。どのような治療法があるのか、今後どのような経過をたどるのか。そして家族として一番気になる「いったいどの病院のどの医師にかかるのが良いのか」。分からないことだらけの中から、ひとつひとつ何をどうすればいいのか調べていった。
が、ここで問題になったのは、母本人が病院に行きたがらないということだった。
母は「私はなんともない」といい、徹底抗戦した。
前回述べたような母の状態は、認知症の始まりであろう、というのは、素人にも容易に想像がついた。が、事実を認識することと、受け入れることとは違う次元の問題である。
本人が最も受け入れられない
私自身も、母が認知症ではないかということを受け入れがたかったのだが、母本人はそれ以上に「自分が認知症を発症した」ということを受け入れることができなかった。もともと病気知らずの人だったので、病院に行く習慣もない。「私は平気よ。なんで私が病院なんか行かなければならないの」といって、拒否した。
母は理性的ではあるが、それ以上に感情の人でもある。感情的に納得できないことには、強い抵抗を示す性格であることはもとより知っていた。が、認知症に関しての抵抗はことのほかすさまじかった。
その態度を理解することはできる。そもそも認知症では、本人に病気の自覚はないのが普通だ。脳の病変では、記憶とか自我とか性格と言った、自分自身そのものが変化・劣化していく。変化しつつある自分で、自分の変化を客観的に認識するのは非常に難しいということなのだろう。まして、認知症は少し前まで「痴呆症」という差別的な名称と共に恐怖と軽蔑の対象だった。
自分がそんな病気にかかっているとは認めたくないのが人情だ。私だって自分が認知症を発症した場合、するりと事実を認められるか自信がない。
タイトルは『母さん、ごめん』です。
この連載「介護生活敗戦記」が『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』として単行本になりました。
老いていく親を気遣いつつ、日々の生活に取り紛れてしまい、それでもどこかで心配している方は、いわゆる介護のハウツー本を読む気にはなりにくいし、読んでもどこかリアリティがなくて、なかなか頭に入らないと思います。
ノンフィクションの手法でペーソスを交えて書かれたこの本は、ビジネスパーソンが「いざ介護」となったときにどう体制を構築するかを学ぶための、読みやすさと実用性を併せ持っています。
そして、まとめて最後まで読むと、この本が連載から大きく改題された理由もお分かりいただけるのではないでしょうか。単なる介護のハウツーを語った本ではない、という実感があったからこそ、ややセンチな題となりました。
どうぞお手にとって改めてご覧下さい。夕暮れの鉄橋を渡る電車が目印です。よろしくお願い申し上げます。(担当編集Y)
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