母は、海軍の軍人であった祖父と、地方の名家の末娘であった祖母の間に4人兄弟の2番目として生まれた。転勤の多い海軍軍人の家庭の例に漏れず、幼少時は舞鶴、佐世保、逗子と日本中を転々と移動して育った。

 戦後、祖父母は故郷に定住し、母は地元の高校を卒業した後、昭和一桁生まれの女性には珍しく大学まで進学して、英文学を学んでいる。大学時代は観劇に熱中。「三島由紀夫は、自分の戯曲がかかるといつも来ていた」「若い頃の美輪明宏はとってもきれいだった」というようなことを言っていたこともある。

 卒業後は東京・丸の内に本社を構える某財閥系大企業に就職した。就職はどうやら祖父の海軍時代のコネだったようである。ビジネス・ガール(BG)という言葉をご存じだろうか。太平洋戦争後の一時期、オフィスに進出した働く女性のことをこう呼んだ。20代の母は世の最先端たるBGだったわけである。

 余談だが、その後ビジネス・ガールには娼婦という意味があることが判明し、その代替として作られた言葉がオフィス・レディ(OL)という和製英語だった。ちなみにOLという言葉を作ったのは、後に「ノストラダムスの大予言」で一世を風靡するというか社会に多大な害毒を流すというか、ともかく大きな影響を与えた五島勉氏である。

英語塾を開き、旅行にも出かけていた

 かつて母が私に語った、昭和30年代前半の財閥系大手企業に在籍するエリート・サラリーマンの勤務実態は無類に面白く、「ああなるほど。日本の労働生産性が低いのは、こういう連中がこういう働き方をしていた結果か」と思わせるものがあったが、蛇足になるので省こう。ただし「若い女の子なんておまけ扱いで仕事をもらえなくて、暇だから職場で本を読んでいたら叱られた。それならば、と、英語の本を読むようにしたら、誰も文句を言わなくなった」と話していたことはここに書いておいてもいいだろう。

 その後、新聞記者をしていた父と見合い結婚をして、当時の常識に従って寿退社。専業主婦として我々兄弟を出産し、育てた。よくある話だが、嫁姑問題で揉めに揉めて、あわや離婚かという時期もあったが乗り越え、後に英語の能力を生かして中学生向けのごく少人数の私塾を営んだ。

 五十代、六十代は英語塾で作ったささやかな資金的余裕で国内外への旅行を楽しんだ。母七十歳の時に父が死去。その後も、合唱のサークルだ、太極拳の練習だ、フランス語やスペイン語や中国語の勉強だ、とけっこう忙しく人生を楽しんできた。

 体も丈夫で病気らしい病気もしなかったため、子供らはなんとなく「このまま徐々に衰えて、周囲にあまり手間をかけさせることなく、けっこうな長生きをしてすとんと死んでいくのだろう」と思い込んでいた。

 そうではなかったのである。