明治新政府の一員として慶喜助命に奔走する

 ところが、事態は急変する。

 江戸で徳川家と薩摩藩が戦闘状態に入ったことで、戦火が上方に飛び火し、慶喜は薩摩藩討伐を掲げて京都へ兵を進める。その先鋒を務めたのが容保・定敬を戴く会津・桑名藩であり、京都南郊の鳥羽・伏見で薩摩・長州藩と激突した。慶応4年(1868)1月のことであった。

 鳥羽・伏見の戦いは薩摩・長州藩に凱歌が上がり、慶喜や容保・定敬は朝敵に転落した。慶喜討伐を掲げた追討軍が編成される運びとなり、尾張藩や福井藩もその戦列に加わることが命じられるが、春嶽は追討軍の派遣中止を新政府に求める。

 これ以上の内戦を避けるためであった。ソフトランディングに政権交代を完了させたい春嶽は、追討軍が派遣された後も慶喜助命に奔走するのである。

 明治維新に翻弄された4人の徳川一門の殿様の生き様をみてきた。4人とも養子という共通点があり、養子に入った藩の御家事情にその行動が制約される傾向も共通して読み取れるだろう。徳川一門の枠に縛られる藩主と、藩という次元で行動する藩士たちのせめぎ合いの光景だ。

 社長の意志が絶対なのか、会社の利益を優先させるべきなのか。明治維新に際し、諸藩が共通して迫られた選択であった。なかでも4人の殿様は徳川一門であるがゆえに、幕府への義理も考慮しなければならず、苦渋の選択を余儀なくされていたのである。

著者
安藤優一郎
(あんどう・ゆういちろう)氏

プロフィール
 歴史家。文学博士(早稲田大学)。江戸時代に関する執筆・講演活動を展開。JR東日本・大人の休日倶楽部などで講師を勤める。主な著作に『西郷どんの真実』(日経ビジネス人文庫)。『相続の日本史』(日経プレミアシリーズ)。3月20日に日本経済新聞出版社から『河井継之助―近代日本を先取りした改革者』を発売。