将軍継嗣をめぐる政争は南紀派の勝利に終り、一橋派の諸大名やその家臣たちは安政の大獄という名の粛清に遭う。安政5年(1858)、春嶽は隠居・謹慎を命じられ、支藩である越後糸魚川藩主の松平茂昭が藩主の座を継いだ。

 春嶽は雌伏を余儀なくされるが、井伊が桜田門外で横死すると、隠居・謹慎を解かれる。そして、亡兄島津斉彬の遺志を継いで幕政進出を目指した島津久光の尽力により、大老に相当する政事総裁職に任命される。文久2年(1862)7月のことである。

 以後、薩摩藩の申し入れに応える形で幕政改革を断行するが、親藩や外様大名が幕政に加わりはじめたことに、幕府内部から反発が噴出する。

 こうして、譜代大名から任命された老中たちからは敬して遠ざけられ、幕府から浮いた存在となる。

 翌3年(1863)1月、将軍家茂の上洛に先んじて入京し、幕府に対して攘夷実行を強く迫る朝廷の説得工作にあたったが、失敗する。3月、万策尽きた春嶽は政事総裁職の辞表を提出し、福井に引き揚げた。

 この後、春嶽が幕府の役職に就くことはなかった。薩摩藩などの有力外様大名との連携を強めることで、挙国一致の政治体制の構築を目指すようになる。雄藩連合により幕府から国政の主導権を奪おうとしたのである。

 徳川一門でありながら、宗家と距離を置いてきた福井藩の歴史が反映された政治姿勢だった。だが、幕府中心の政治体制を志向する譜代大名や幕臣から危険視されるのは避けられなかった。

慶喜の新政府入りを内定させる

 春嶽が連携を模索していた薩摩藩は仇敵だった長州藩と手を結び、武力をもって徳川慶喜を将軍の座から引きずりおろそうと決意する。討幕である。

 しかし、慶喜は先手を打つ形で幕府を消滅させて大名の列に自ら降り、天皇をトップとする新政府樹立への道筋を引いた。慶応3年(1867)10月の大政奉還である。

 想定外の事態に直面した薩摩藩は長州藩や広島藩との提携を強化し、慶喜や会津・桑名藩を排除した新政府の樹立計画を進行させた。その過程で、同じ徳川一門ながら幕府と距離を置く尾張藩と福井藩を味方に引き込むことに成功する。

 薩摩藩が長州・広島藩と共同して上方に軍事力を集中させたことが決め手になる。ここに、薩摩・広島・土佐・尾張・福井藩など5藩による連合政権が樹立される運びとなる。

 5藩は慶喜や会津・桑名藩の抵抗を恐れ、抜き打ちのクーデター方式で新政府を樹立する予定だったが、春嶽は密かに政変の決行を二条城の慶喜に伝えている。この政変は慶喜への裏切りに他ならなかった以上、徳川一門としてのDNAが成せる業だったのかもしれない。

 だが、慶喜が様子見の態度を取ったことで政変は成功する。12月のことである。

 果たせるかな、新政府から排除された会津・桑名藩は猛反発するが、京都で武力衝突が起きるのを恐れた慶喜は会津藩主の松平容保と桑名藩主の同定敬を連れ、大坂城に入城する。しばらくの間、双方は睨み合いの状態に入った。

 その間、新政府の一員の立場を活かす形で、春嶽は慶勝とともに事態の収拾をはかる。ついには、慶喜の新政府入りも内定した。分裂していた徳川一門が再結集を果たした形である。徳川宗家も大名の列に降りた以上、慶喜も取り込む形でソフトランディングに政権交代を完了させたい春嶽と慶勝による政治工作の賜物だった。

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