(前回、桑名藩主「松平定敬」はこちら)
最終回は徳川一門でありながら、高須4兄弟の徳川慶勝とともに明治新政府の一翼を担った福井藩主松平春嶽(慶永)を取り上げる。
政治総裁職に就き、一次は幕政に関与した松平春嶽(写真:アフロ)
文政11年(1828)、春嶽は田安徳川家当主斉匡の子として生まれた。慶勝よりも4才年下にあたる。なお、慶永が実名で春嶽は号だが、一般に知られている春嶽で通す。
徳川一門のうち徳川姓を与えられたのは、宗家(将軍家)のほかでは御三家(尾張・紀州・水戸)と御三卿(田安・一橋・清水)のみである。御三家は初代家康の子供が家祖。御三卿は8代吉宗の子や孫が家祖であるため、宗家により近い家だった。
御三卿の家に生まれると徳川一門に養子入りするのが通例。春嶽もその一人で、天保9年(1838)に福井藩松平家に養子に入る。徳川一門の家のなかでも宗家とはたいへん微妙な関係にあった家だった。福井藩の藩祖は、家康の次男で結城家に養子に入った秀康である。
既に家康の嫡男信康がこの世にいなかったため、長幼の順からすると秀康が跡を継ぐところであった。しかし、家康は秀康を結城家に養子に出し、三男の秀忠に家督を譲ってしまう。その子孫が代々将軍職を継ぐ。
一方、秀康には越前北ノ荘(福井)67万石を与え、福井藩松平家の藩祖とした。さらに、親藩大名では御三家に次ぐ家格として位置付けたが、秀康の子孫にとってみれば、本来は自分の家こそが将軍を継ぐべきという意識が消えなかったのは無理もなかった。
そんな宗家に対する対抗意識も相まって、秀康の嫡男松平忠直は幕府に対して反抗的な姿勢を取る。幕府から危険視された忠直は豊後へ配流されるが、その後も藩内は内紛が絶えなかった。所領も32万石にまで減らされる。
そして、宗家から養子が送り込まれる事例が続くようになり、宗家との関係に隙間風が吹きはじめる。まさしく尾張藩と同じであり、幕末に福井藩が宗家と距離を置く伏線となっていく。春嶽の新政府入りにもつながるわけである。
有力外様大名との連携を模索する
藩主となった春嶽は藩政改革に努めた。嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航すると、幕政への参画を目指すようになる。
福井藩は親藩であったため幕政には関与できなかったが、同じ立場にあった外様大名と提携する形で幕政進出を試みる。春嶽が最も信頼を置いた外様大名は薩摩藩主島津斉彬であった。
折しも、幕府では将軍継嗣をめぐる争いが起きようとしていた。13代将軍家定には跡継ぎがいなかったため、春嶽は水戸藩から一橋家に養子に入っていた慶喜を擁立しようと考える。慶喜を将軍の座に就けることで、幕政への発言権を確保しようとしたのだ。
春嶽は幕政進出を目指す斉彬たち外様大名や慶勝たち親藩大名を味方に引き込んだ。幕末史では慶喜を将軍に推す大名たちは一橋派と称される。
一方、それまで幕政を取り仕切っていた譜代大名は、家定の従兄弟にあたる紀州藩主の慶福を推した。これを南紀派と称した。その旗頭こそ、譜代大名筆頭の彦根藩主井伊直弼である。
将軍継嗣をめぐる政争は南紀派の勝利に終り、一橋派の諸大名やその家臣たちは安政の大獄という名の粛清に遭う。安政5年(1858)、春嶽は隠居・謹慎を命じられ、支藩である越後糸魚川藩主の松平茂昭が藩主の座を継いだ。
春嶽は雌伏を余儀なくされるが、井伊が桜田門外で横死すると、隠居・謹慎を解かれる。そして、亡兄島津斉彬の遺志を継いで幕政進出を目指した島津久光の尽力により、大老に相当する政事総裁職に任命される。文久2年(1862)7月のことである。
以後、薩摩藩の申し入れに応える形で幕政改革を断行するが、親藩や外様大名が幕政に加わりはじめたことに、幕府内部から反発が噴出する。
こうして、譜代大名から任命された老中たちからは敬して遠ざけられ、幕府から浮いた存在となる。
翌3年(1863)1月、将軍家茂の上洛に先んじて入京し、幕府に対して攘夷実行を強く迫る朝廷の説得工作にあたったが、失敗する。3月、万策尽きた春嶽は政事総裁職の辞表を提出し、福井に引き揚げた。
この後、春嶽が幕府の役職に就くことはなかった。薩摩藩などの有力外様大名との連携を強めることで、挙国一致の政治体制の構築を目指すようになる。雄藩連合により幕府から国政の主導権を奪おうとしたのである。
徳川一門でありながら、宗家と距離を置いてきた福井藩の歴史が反映された政治姿勢だった。だが、幕府中心の政治体制を志向する譜代大名や幕臣から危険視されるのは避けられなかった。
慶喜の新政府入りを内定させる
春嶽が連携を模索していた薩摩藩は仇敵だった長州藩と手を結び、武力をもって徳川慶喜を将軍の座から引きずりおろそうと決意する。討幕である。
しかし、慶喜は先手を打つ形で幕府を消滅させて大名の列に自ら降り、天皇をトップとする新政府樹立への道筋を引いた。慶応3年(1867)10月の大政奉還である。
想定外の事態に直面した薩摩藩は長州藩や広島藩との提携を強化し、慶喜や会津・桑名藩を排除した新政府の樹立計画を進行させた。その過程で、同じ徳川一門ながら幕府と距離を置く尾張藩と福井藩を味方に引き込むことに成功する。
薩摩藩が長州・広島藩と共同して上方に軍事力を集中させたことが決め手になる。ここに、薩摩・広島・土佐・尾張・福井藩など5藩による連合政権が樹立される運びとなる。
5藩は慶喜や会津・桑名藩の抵抗を恐れ、抜き打ちのクーデター方式で新政府を樹立する予定だったが、春嶽は密かに政変の決行を二条城の慶喜に伝えている。この政変は慶喜への裏切りに他ならなかった以上、徳川一門としてのDNAが成せる業だったのかもしれない。
だが、慶喜が様子見の態度を取ったことで政変は成功する。12月のことである。
果たせるかな、新政府から排除された会津・桑名藩は猛反発するが、京都で武力衝突が起きるのを恐れた慶喜は会津藩主の松平容保と桑名藩主の同定敬を連れ、大坂城に入城する。しばらくの間、双方は睨み合いの状態に入った。
その間、新政府の一員の立場を活かす形で、春嶽は慶勝とともに事態の収拾をはかる。ついには、慶喜の新政府入りも内定した。分裂していた徳川一門が再結集を果たした形である。徳川宗家も大名の列に降りた以上、慶喜も取り込む形でソフトランディングに政権交代を完了させたい春嶽と慶勝による政治工作の賜物だった。
明治新政府の一員として慶喜助命に奔走する
ところが、事態は急変する。
江戸で徳川家と薩摩藩が戦闘状態に入ったことで、戦火が上方に飛び火し、慶喜は薩摩藩討伐を掲げて京都へ兵を進める。その先鋒を務めたのが容保・定敬を戴く会津・桑名藩であり、京都南郊の鳥羽・伏見で薩摩・長州藩と激突した。慶応4年(1868)1月のことであった。
鳥羽・伏見の戦いは薩摩・長州藩に凱歌が上がり、慶喜や容保・定敬は朝敵に転落した。慶喜討伐を掲げた追討軍が編成される運びとなり、尾張藩や福井藩もその戦列に加わることが命じられるが、春嶽は追討軍の派遣中止を新政府に求める。
これ以上の内戦を避けるためであった。ソフトランディングに政権交代を完了させたい春嶽は、追討軍が派遣された後も慶喜助命に奔走するのである。
明治維新に翻弄された4人の徳川一門の殿様の生き様をみてきた。4人とも養子という共通点があり、養子に入った藩の御家事情にその行動が制約される傾向も共通して読み取れるだろう。徳川一門の枠に縛られる藩主と、藩という次元で行動する藩士たちのせめぎ合いの光景だ。
社長の意志が絶対なのか、会社の利益を優先させるべきなのか。明治維新に際し、諸藩が共通して迫られた選択であった。なかでも4人の殿様は徳川一門であるがゆえに、幕府への義理も考慮しなければならず、苦渋の選択を余儀なくされていたのである。
著者
安藤優一郎
(あんどう・ゆういちろう)氏
プロフィール
歴史家。文学博士(早稲田大学)。江戸時代に関する執筆・講演活動を展開。JR東日本・大人の休日倶楽部などで講師を勤める。主な著作に『西郷どんの真実』(日経ビジネス人文庫)。『相続の日本史』(日経プレミアシリーズ)。3月20日に日本経済新聞出版社から『河井継之助―近代日本を先取りした改革者』を発売。
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