藩存続のため家老の説得を容れる

 慶応4年(1868)1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで、会津・桑名藩は京都を目指す徳川方の先鋒を務める形で薩摩・長州藩と激突した。会津藩は伏見で、桑名藩は鳥羽で奮戦したが、徳川方のまとまりの悪さなども相まって、両藩は後退を余儀なくされる。そして朝敵に転落した。

 戦況の不利を悟った慶喜は大坂城から海路江戸へと向かうが、その折、容保と定敬に同行を命じる。二人を大坂に残しておくと、自分の代りに祀り上げられ、会津・桑名藩士が抗戦を続ける恐れがあったからだ。

 主君が江戸へ向かったことを知った会津藩士はその跡を追うが、桑名藩士の場合は事情が違っていた。もちろん定敬の跡を追った藩士もいたが、藩内では別の動きが起きていた。

 会津とは違い、桑名は上方の要衝であり、西日本を制圧しつつあった薩摩・長州藩を主軸とする新政府の軍事的圧力に晒されていた。その上、譜代大名の井伊家をはじめ、上方の諸藩は新政府に次々と帰順し、桑名藩は四面楚歌の状況に置かれつつあった。

 定敬が所司代を長く務めることへの不満と不安が藩内には渦巻いていた。それが、ここに至り、一気に噴出する。新政府への帰順、つまり不戦論が藩内で急速に台頭した。しかし、藩内では抗戦論も根強かったため藩内は分裂の危機に陥る。藩主が不在であったことも混乱に拍車を駆けた。

 桑名藩の留守を預かっていた家老酒井孫八郎は藩内の分裂と滅亡を避けるため、新政府への帰順で藩論を統一する。藩を守るため、藩主定敬の意志に背く形で新政府に降った。1月28日のことである。以後、桑名藩は新政府側の尾張藩の管理下に入る。

 国元を長らく不在とし、さらには養子だったこともあり、定敬が家中を充分に掌握できていなかったことは否めない。兄弟が藩主を務めたことで会津・桑名藩は政治行動を共にしたが、もともとは別の藩である。会津藩に引きずられることへの不満と不安が藩内で渦巻いていたことは否めない。

 葵の紋所を持つ同族グループの会社ではあったが、会社が存亡の危機に瀕したのを契機に別々の道を歩んだわけである。

 一方、江戸に戻った慶喜は新政府に対して恭順の意思を示すことを決めたため、抗戦の意思を捨てない松平容保・定敬兄弟は帰国を命じられる。容保は会津若松城に帰るが、定敬には帰るべき城がなかった。

 止むなく、定敬のもとに駆け付けた藩士たちとともに、分領の越後柏崎陣屋に向かう。しかし、越後でも新政府軍に敗れた定敬は、蝦夷地に渡り箱館で最後の抗戦を試みる。

 これでは桑名藩の存続も危ういと事態を憂慮した酒井は、自ら箱館まで赴く。定敬を説得して、新政府に帰順させた。年は明け、明治2年(1869)5月になっていた。

 これにより、桑名藩は会津藩のように御家断絶からは免れる。所領は約半減されたものの、桑名藩は存続を許された。

 会津藩に比べ、桑名藩の苦難が明治維新史で取り上げられることは少ない。会津藩とは異なり、戦わずして帰順したことが大きい。同じ徳川一門に連なる藩で藩主が兄弟であっても、別々の藩であることが桑名藩をして帰順の道を取らせた格好であった。

 桑名藩における家老酒井孫八郎の行動は、会社が存亡の危機に立たされた時、社長の意向よりも会社の存続を優先させるため役員が決起した社内クーデターに似ているのではないか。

(次回は、3月23日に越前藩主・松平春嶽をお送りします)

著者
安藤優一郎
(あんどう・ゆういちろう)氏

プロフィール
 歴史家。文学博士(早稲田大学)。江戸時代に関する執筆・講演活動を展開。JR東日本・大人の休日倶楽部などで講師を勤める。主な著作に『西郷どんの真実』(日経ビジネス人文庫)。『相続の日本史』(日経プレミアシリーズ)。3月20日に日本経済新聞出版社から『河井継之助―近代日本を先取りした改革者』を発売。

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