京都所司代として兄容保を支える

 兄の容保が会津藩士1000人を連れて京都に入ったのはその年の暮のこと。京都には守護職とともに治安維持にあたる所司代が置かれていた。時の所司代は長岡藩主牧野忠恭で、その家臣として奔走していたのが河井継之助である。

 しかし、長岡藩の所領は7万4000石に過ぎなかった。23万石の会津藩とともに、風雲急を告げる京都で鎮撫の任にあたることは無理があった。そのため、翌3年(1863)6月に牧野忠恭は所司代を辞職し、淀藩主の稲葉正邦が後任に補される。淀藩の所領は15万石であった。

 元治元年(1864)4月、幕府は稲葉を老中に抜擢し、江戸へ向かわせる。そして、後任の所司代として白羽の矢が立ったのが定敬だった。ここに、兄弟揃って守護職・所司代として京都鎮撫の任にあたることになる。慶応3年(1867)12月に両職が廃止されるまで、会津・桑名藩が京都で幕府を支える体制は続く。

 定敬が桑名藩士を率いて入京した時、京都の情勢は既に緊迫していた。元治元年(1864)6月には会津藩配下の新選組が池田屋事件を起こし、長州藩士を殺傷する。これに激高した長州藩は会津藩主松平容保討伐を掲げ、京都に兵を進めた。

 当然、定敬は所司代として兄容保を支える。親藩の会津藩や福井藩、そして外様の薩摩藩とともに御所の警備に付き、長州藩兵を撃退した。7月の禁門(蛤御門)の変の名で知られる戦いである。

 その後も、桑名藩は会津藩とともに京都に駐屯する。最後の将軍となる慶喜を奉じ、長州藩そして薩摩藩との対決姿勢を強めていく。

 しかし、桑名藩も会津藩と同様の問題を内部に抱えていた。幕府から手当は付いたものの、大勢の藩士とともに京都に駐屯し続けるには到底足りなかったからである。結局は持ち出しを強いられ、財政が火の車となり、そのしわ寄せは藩士に降りかかった。

 このまま定敬が所司代の職にとどまっては、藩や藩士が疲弊して滅亡の危機に瀕し、仇敵長州藩との戦いも避けられない。藩内の不満と不安が増幅していくが、定敬はその職にとどまり続ける。兄容保と運命を共にする道を選び、戊辰戦争の渦の中へと飛び込む。だが、桑名藩は別の道を歩むのである。

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