会津藩が存亡の危機に陥ることを危惧したのだ。実際、その危惧は現実のものとなる。

 しかし、正之が残した家訓を知っていた春嶽は容保を説得してしまう。藩祖の正之ならば、必ず引き受けただろう。この言葉は、容保には殺し文句だった。

 正之は家訓を通じて将軍(幕府)への絶対的な忠誠を歴代藩主に求めたわけだが、容保にとり藩祖の家訓は何よりも重かった。養子であるがゆえに、養家の社訓により縛られてしまう。会津藩としては、幕府の苦難を黙視できない。命運を共にしなければならない。

 容保は藩内の反対を押し切って京都守護職を受諾する。これが、会津藩にとっては茨の道のはじまりだった。

容保に守護職辞職を求めた会津藩重臣

 会津藩士1000人とともに入京した容保は、幕府の命に従って職責を全うすることに努める。衰運の幕府を支える柱石になるとともに、孝明天皇の厚い信任も獲得した。だが、そのぶん、朝廷を牛耳ろうとしていた長州藩などからの嫉妬は避けられなかった。

 元治元年(1864)の池田屋事件、禁門の変を経て、長州藩とは血で血を争う仇敵の関係になる。高須四兄弟では弟にあたる桑名藩主松平定敬は京都所司代として容保を支えたが、長兄にあたる徳川慶勝が藩主を勤めた尾張藩との関係は微妙なものとなっていく。

 正之の家訓に従って幕府と運命を共にする道を進む会津藩と、藩主が2度にわたって隠居を命じられた上、宗家から養子を押し付けられてきたことで幕府への積年の不満が溜まっていた尾張藩の藩内事情の違いだ。幕府を支える会津(容保)・桑名藩(定敬)と、幕府と距離を置く尾張藩(慶勝・茂徳)の政治的立場の違いが、同じ徳川一門の家に養子に入った高須四兄弟の間を引き裂いた。

 こうして、会津藩は幕府の柱石として守護職を勤めれば勤めるほど、反幕府の立場を取る長州藩や薩摩藩との関係が悪化することになったが、藩内にも容保への不満が広がっていた。幕府から手当は付いたものの、大勢の藩士とともに京都に駐屯し続けるには到底足りなかったからだ。結局は持ち出しを強いられ、財政が火の車となる。

 容保の在京は5年にも及んだが、京都詰の藩士たちも多大な負担を強いられる。藩にしても財政難であるから、彼らに充分な手当は支給できなかった。生活難に陥った藩士の間では、内心京都詰を忌避する空気があったが、迷惑であると表立って申し立てるのは臣下として許されるべきことではなかった。会津藩に限らず、藩士にとり藩命は絶対だった。

 しかし、このまま容保が守護職にとどまっては、藩や藩士たちが疲弊して滅亡の危機に瀕するのは明らかだった。仇敵長州藩との戦いも避けられない。重臣たちは容保に守護職辞任と国元への帰国を説く。会社の危機を眼前にした役員たちが、その回避をはかろうと社長に直訴した格好だが、容保は重臣たちの意見を退け、守護職にとどまる。子会社の存亡よりも本社の利益を優先した形であった。