(前回、尾張藩主「徳川慶勝」はこちら)
第2回は会津藩主松平容保を取り上げる。容保は天保6年(1835)の生まれで、兄の徳川慶勝よりも11才年下である。高須四兄弟でいうと、3番目にあたる。
京都守護職を務めたがゆえに幕末・維新の風雲を真正面から浴びた松平容保(近現代PL/アフロ)
会津藩の初代は、3代将軍家光の異母弟で信濃の旧家保科家に養子に入った正之である。23万石の所領を与えられた保科正之は、甥にあたる4代家綱の治世では将軍補佐役をつとめた。藩主が松平姓を名乗ったのは、3代藩主の時からである。
会津藩松平家は福井藩松平家とともに、松平姓を名乗る親藩大名の代表格だった。徳川御三家も親藩大名だが、当時の慣例として親藩大名が幕府の役職に就くことはなかった。外様大名はもちろんである。
老中・若年寄や奉行職など幕府の役職に就けるのは、徳川家の家臣から大名に取り立てられた譜代大名と、将軍の御直参である旗本と御家人だった。徳川宗家としては一門の大名をして幕府の仕事に当たらせるのはためらわれ、一門の大名としても宗家(将軍)の下で仕事をするのは抵抗があった。一国一城の主としてのプライドである。
ただし、将軍が幼少の時などは別で、親藩大名も特別に幕府政治に関与した。保科正之が任命された将軍補佐役はその一例だ。御三家が幕政に関与することもみられた。
寛文8年(1661)、正之は家老宛という形で15ケ条から成る家訓を家中に向けて提示する。この家訓は会津藩の藩是となる。正之は第1条目で将軍には一心をもって忠勤を励むことを説く。他藩の動向に関係なく、将軍には忠節を尽くさなければならない。もし二心を抱く藩主があれば、もはや自分の子孫ではない。そんな主君に、家臣たちは従う必要はない。
正之は家訓を通じて将軍(幕府)への絶対的な忠誠を歴代藩主に求めた。会社に喩えると創業者の社訓だ。この社訓に縛られてしまったのが美濃高須藩から養子に入った第9代藩主の松平容保なのである。
松平容保、京都守護職となる
容保が会津藩に養子に迎えられたのは、弘化3年(1846)のこと。藩主の座に就いたのは嘉永5年(1852)、18才の時だった。
そんな容保が幕末の政治史に登場するのは、文久2年(1862)のことである。
当時は幕府権威の低下による天皇(朝廷)権威の急浮上を受け、京都が江戸に代わって政局の舞台となっていた。攘夷を唱える尊王攘夷の志士が京都に集結し、天誅などの騒動を引き起こす。
朝廷内でも尊攘派の公家が台頭する。薩摩藩や長州藩に象徴されるように、朝廷を介して幕政に影響力を行使しようという藩も増えはじめた。天皇の奪い合いだ。
こうした京都の情勢を、幕府は危険視する。朝廷や西国大名の監視そして京都の治安維持のために京都所司代を置いていたものの、所司代のみでは無理と判断する。
所司代に任命されるのは10万石前後の譜代大名であり、小禄の方だった。そこで、23万石の石高を誇る会津藩の武力をもって、京都の治安を回復しようと目論む。京都守護職の新設だ。会津藩としては将軍補佐役に任命された藩祖保科正之と同じく、特命を受けて幕政への参画を求められた格好である。
容保に守護職就任を求めてきたのは、同じ親藩出身で大老に相当する政事総裁職を務めていた福井前藩主の松平春嶽だった。容保はこれを固持、家臣たちも大反対だった。現下の情勢では、衰運の幕府を助けて守護職を務めるというのは薪を背負って火中に飛び込むのに等しい。家老の西郷頼母や田中土佐は言葉を尽くし、守護職を受けないよう容保に諫言を重ねる。
会津藩が存亡の危機に陥ることを危惧したのだ。実際、その危惧は現実のものとなる。
しかし、正之が残した家訓を知っていた春嶽は容保を説得してしまう。藩祖の正之ならば、必ず引き受けただろう。この言葉は、容保には殺し文句だった。
正之は家訓を通じて将軍(幕府)への絶対的な忠誠を歴代藩主に求めたわけだが、容保にとり藩祖の家訓は何よりも重かった。養子であるがゆえに、養家の社訓により縛られてしまう。会津藩としては、幕府の苦難を黙視できない。命運を共にしなければならない。
容保は藩内の反対を押し切って京都守護職を受諾する。これが、会津藩にとっては茨の道のはじまりだった。
容保に守護職辞職を求めた会津藩重臣
会津藩士1000人とともに入京した容保は、幕府の命に従って職責を全うすることに努める。衰運の幕府を支える柱石になるとともに、孝明天皇の厚い信任も獲得した。だが、そのぶん、朝廷を牛耳ろうとしていた長州藩などからの嫉妬は避けられなかった。
元治元年(1864)の池田屋事件、禁門の変を経て、長州藩とは血で血を争う仇敵の関係になる。高須四兄弟では弟にあたる桑名藩主松平定敬は京都所司代として容保を支えたが、長兄にあたる徳川慶勝が藩主を勤めた尾張藩との関係は微妙なものとなっていく。
正之の家訓に従って幕府と運命を共にする道を進む会津藩と、藩主が2度にわたって隠居を命じられた上、宗家から養子を押し付けられてきたことで幕府への積年の不満が溜まっていた尾張藩の藩内事情の違いだ。幕府を支える会津(容保)・桑名藩(定敬)と、幕府と距離を置く尾張藩(慶勝・茂徳)の政治的立場の違いが、同じ徳川一門の家に養子に入った高須四兄弟の間を引き裂いた。
こうして、会津藩は幕府の柱石として守護職を勤めれば勤めるほど、反幕府の立場を取る長州藩や薩摩藩との関係が悪化することになったが、藩内にも容保への不満が広がっていた。幕府から手当は付いたものの、大勢の藩士とともに京都に駐屯し続けるには到底足りなかったからだ。結局は持ち出しを強いられ、財政が火の車となる。
容保の在京は5年にも及んだが、京都詰の藩士たちも多大な負担を強いられる。藩にしても財政難であるから、彼らに充分な手当は支給できなかった。生活難に陥った藩士の間では、内心京都詰を忌避する空気があったが、迷惑であると表立って申し立てるのは臣下として許されるべきことではなかった。会津藩に限らず、藩士にとり藩命は絶対だった。
しかし、このまま容保が守護職にとどまっては、藩や藩士たちが疲弊して滅亡の危機に瀕するのは明らかだった。仇敵長州藩との戦いも避けられない。重臣たちは容保に守護職辞任と国元への帰国を説く。会社の危機を眼前にした役員たちが、その回避をはかろうと社長に直訴した格好だが、容保は重臣たちの意見を退け、守護職にとどまる。子会社の存亡よりも本社の利益を優先した形であった。
当然ながら、藩内にはしこりが残る。藩内に反発を抱えたまま、容保は大政奉還の日を迎える。幕府が倒れた後は、薩摩・長州藩との戦いが時間の問題となり、慶喜を奉じる会津藩と桑名藩は敗れ、朝敵に転落した。容保は弟の定敬とともに、慶喜に随って江戸へ敗走する。会津藩士たちもその跡を追った。
しかし、新政府に対して恭順の意思を示す慶喜からは会津への帰国を命じられる。抗戦の意思を捨てない会津藩は、慶喜にとり都合の悪い存在になってしまったからだ。その後の会津藩の苦難は、白虎隊の悲劇に象徴されるように良く知られているだろう。
明治維新(戊辰戦争)における会津藩の悲劇とは、創業者の社訓に縛られた子会社の社長が本社に義理立てし続けた結果、その身代わりとなって自分の会社を倒産させてしまい、社員にも多大な犠牲を強いた事例である。会津藩主松平容保の生き様は、現代にも通じる本社と子会社の関係の難しさを物語っている。
(次回は、3月22日に桑名藩主・松平定敬をお送りします)
著者
安藤優一郎
(あんどう・ゆういちろう)氏
プロフィール
歴史家。文学博士(早稲田大学)。江戸時代に関する執筆・講演活動を展開。JR東日本・大人の休日倶楽部などで講師を勤める。主な著作に『西郷どんの真実』(日経ビジネス人文庫)。『相続の日本史』(日経プレミアシリーズ)。3月20日に日本経済新聞出版社から『河井継之助―近代日本を先取りした改革者』を発売。
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