しかし、慶勝が西郷の勧めを受けて寛大な処置を施したことに、幕府は大いに不満だった。最後の将軍となる同じ徳川一門の一橋慶喜などは「芋に酔った」と批判している。芋とは薩摩藩(西郷)のことで、慶勝は西郷に籠絡されて長州藩を屈服させる機会を逃したというわけだ。

明治政府の一翼を担った尾張藩

 それから3年後の慶応3年(1867)10月、将軍慶喜は大政奉還に踏み切り、幕府は消滅する。その後、薩摩藩が主導する形で天皇をトップとする明治新政府が樹立されたが、徳川一門は分断された。慶喜が新政権から排除される一方、慶勝と福井前藩主松平春嶽を政府入りさせたのである。

 これに反発した慶勝の弟にあたる高須四兄弟の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬は、慶喜を奉じて新政府と開戦する。慶応4年(1868)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いである。だが、慶喜と両藩は戦いに敗れて朝敵に転落し、慶勝と容保・定敬は兄弟で敵味方に分かれた。江戸中期以降、幕府と尾張藩が冷戦状態にあったことの必然的な結果でもあった。

 しかし、尾張藩内には幕府に反発する藩士がいる一方で、幕府に殉じるべきと主張する藩士も少なくなかった。このままでは路線対立が起き、内部抗争が起きるのは時間の問題だった。藩の分裂の危機が迫っていた。

 明治政府からも踏絵を迫られた慶勝は京都から名古屋に急行し、幕府寄りの立場を取る藩士たちを切腹などの断罪に処した。これは「青松葉事件」と呼ばれている。

 家臣たちに犠牲を強いることで藩内の一本化に成功した慶勝は政府の一員として、戊辰戦争勝利のために奔走する。東海道や中山道沿いの諸藩をして明治政府に帰順させることにも成功した。その一方で、敵となった弟たちの助命にも力を尽くした。

 その裏には幕府に不満を抱き続けた尾張藩の歴史に配慮しつつ、政府に敵対した徳川一門の存続も果たさなければならない慶勝の苦悩があった。尾張藩に限ることではないが、尾張藩主と徳川一門の立場を両立させることの難しさが滲み出ている。

著者
安藤優一郎
(あんどう・ゆういちろう)氏

プロフィール
 歴史家。文学博士(早稲田大学)。江戸時代に関する執筆・講演活動を展開。JR東日本・大人の休日倶楽部などで講師を勤める。主な著作に『西郷どんの真実』(日経ビジネス人文庫)。『相続の日本史』(日経プレミアシリーズ)。3月20日に日本経済新聞出版社から『河井継之助―近代日本を先取りした改革者』を発売。