そして、尾張藩に跡継ぎがいなくなると、寛政10年(1798)に徳川宗家から養子を送り込まれてしまう。尾張藩には「御連枝」と称された分家の美濃高須藩松平家(3万石)があり、継嗣がいない場合は高須藩から養子に入るのが慣例だったが、幕府は高須藩からの相続を認めず、吉宗の曾孫にあたる11代将軍家斉の甥斉朝を養子に送り込んだ。

 斉朝が隠居した後も、三代続けて家斉の子や甥が藩主の座に就くが、いずれも吉宗の血統であるから、みな紀州藩出身ということになる。ライバル紀州藩の血統を引く者を主君として仰ぐことへの不満が尾張藩内では募っていく。自前の候補がいるにも拘らず、ライバルが牛耳る本社から社長を送り込まれたことへの反発は抑えようがなかった。

尾張藩待望の藩主徳川慶勝

 当時、分家の高須藩主は松平義建という人物で、子だくさんであった。後述するとおり、幕末史で重要な役割を演じる「高須四兄弟」とは義建の子供たちのことである。

 尾張藩では幕府に対抗して、義建の次男慶恕を藩主に迎えようという動きが既にみられた。慶恕は高須四兄弟では長兄にあたる。幕府はその動きを抑え込み、徳川宗家から養子を送り込み続ける。何度も養子を押し付けてきた幕府への不満は爆発寸前となるが、ようやく嘉永2年(1849)に慶勝が藩主として迎えられた。約半世紀ぶりに、尾張藩は自前の候補を社長の座に据えることができた。

 幕末に尾張藩主となった慶恕は藩政につとめるかたわら、国事多難な折柄、幕府の政治にも積極的に関与する。ついには水戸藩の前藩主斉昭とともに、大老井伊直弼の政治責任を追及したが、その反撃を受けて隠居・謹慎に追い込まれた。安政5年(1858)、世に言う安政の大獄である。藩主の座は高須四兄弟で次弟にあたる茂徳が継いだ。

 尾張藩主としては、宗春以来の強制隠居だった。藩内には衝撃が走り、幕府への反発がさらに強まる。そうした事情は斉昭や家老が処罰された水戸藩も同じであり、脱藩した水戸藩士たちは江戸城桜田門外で井伊を討ち果たす。幕府の権威は地に堕ちた。

 桜田門外の変の後、慶恕は隠居を解かれる。その折慶勝と改名した上で、政治活動を再開させた。文久3年(1863)に息子の義宜が藩主となると、後見役として藩の実権を再び握る。

 翌元治元年(1864)7月、長州藩が京都に攻め上り戦争(禁門の変)が起きる。敗れた長州藩は御所に向けて発砲した廉で朝敵に転落し、諸藩から構成される征長軍が組織された。長州征伐の開始だ。その総督に就任したのが慶勝であった。

 幕府は長州藩を徹底的に追い詰めることでその力を天下に見せつけ、幕府権威の復活を目論んだが、慶勝の考えは違っていた。長州征伐を断行することで、国内が内戦状態に陥ることを懸念していたのである。その混乱に乗じて、欧米列強が日本を侵略しないとも限らない。征長軍参謀を勤めることになった薩摩藩士西郷隆盛も同じ考えだった。

 西郷は長州藩に寛大な処置を取ることで、不戦のまま事態の収拾をはかることを慶勝に提案し、その了解を得る。自ら敵地に乗り込み、長州藩を帰順させることに成功した。征長軍は解兵となり、第一次長州征伐は終った。