火をつけろ、幕を引け、すべては次の研究のため
「ぶれないn」を求めて/研究所リーダー 中原光一さん
ノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典氏が、その重要性を強調した「基礎研究」。しかし、それに携わる人々は「研究所の奥で日々ひたすら研究にいそしんでいる」イメージで、実像になかなか触れる機会がありません。
例えばメーカーの「商品開発」に関しても、脚光を浴びるのはヒットアイテムの商品化を手掛けた「商品企画」部門で、その基盤となった基礎研究にはなかなか光が届きません。
このコラムでは、メーカーの研究所で働く「基礎研究の人々」にお話をうかがっていきます。なぜメーカーで基礎研究をすることを選んだのか、なぜその研究テーマを選んだのか、日々どんな研究生活をしているのか、手応えや悩みは? などなど、知られざる生態に迫ります。
今回訪れたのはサントリーワールドリサーチセンター。2015年5月、京都府精華町に新しい研究開発拠点として作られた「基礎研究の館」です。
サントリーは2004年からR&Dの表彰制度を設けているが、その第1回MVPに選出されたのが中原光一さんだ。現在は研究所を率いる立場にある中原さんには、映画『コラテラル・ダメージ』を見て、頭の中にあったものが映画の中にあったものと思いがけずつながり、「この映画を見たのは、このためだったのか」と腑に落ちた経験がある。
サントリーグローバルイノベーションセンター 研究部 上席研究員 博士(農学) 中原光一さん(写真:行友重治、以下同)
1988年に入社以来、取り扱いが難しいがゆえに、教科書がほとんどなく先輩研究者もあまりいなかった烏龍茶に含まれるポリフェノールの研究をしてきた中原さんは、10年近く過ぎたところで“超臨界水”に出合った。
「酵素いらないじゃん」
液体の水は温度が0度で固体になり、100度で気体になるが、これは気圧が1気圧の場合の話。高所でお湯を沸かすのが難しいのは、気圧が低いからだ。気圧が上がりすぎても、1気圧のときには見られないような現象が起こる。気圧を「22.1MPaより高い圧力をかけると、0.3くらいの、ものすごく濃い水蒸気、高圧の水のガスになるんです」と中原さんは言う。生活環境では、空気中の水の密度は何万分の1という薄さなので、かなり濃厚な水蒸気である。
「あ、これがあるなら酵素いらないじゃん、と思ったんですね」
この説明だけで理解可能な人は中原さん級だ。
超臨界状態の水では、水(H2O)が水素イオンと水酸化物イオンに分離される。水素イオンは陽イオン、水酸化物イオンは陰イオンだ。これらが活発に動き出して、イオン状態が増大するのだ。
「ということは、でんぷんに圧力をかけると糖になるということなんですよ。デンプンを糖に分解する酵素にアミラーゼというものがありますが、これはつまり、酵素を使って加水分解をしていることになるんです。私はそれまで、デンプンを糖にするには酵素が必要だと思っていた。でも、超臨界水のようなものを持ってくると、酵素がいらない。ワクワクしますよね」
そのワクワクを中原さんは烏龍茶にぶつけた。
「でんぷんは糖のポリマーですが、ポリフェノールもポリマーです。このポリフェノールを分解すれば、カテキンや赤色色素のようなものが取り出せるはずなんですが、従来の方法では烏龍茶だけはずっとできなかったんです」
烏龍茶の複雑さは、過去に福井祐子さんに語っていただいた通り。
そこで超臨界水を使ってみると「ただ単に面白かった」という。それが化学工学会賞技術賞を受賞する研究につながるのだが、「超臨界水というのは、温度が380度とか400度とかの世界なんです。それで、0.38秒で木材の85%を糖に変えられたりするのですが、0.38秒を制御するというのは難しく、均一性、生産性が保てないので、実用化の事例がないのです。一方で、僕らは食品なので、焦げてはいけないというルールがある。温度で言うと、油で何かを揚げたり、オーブンで何かを焼いたりするときの温度は200度くらいですよね。それから、『コラテラル・ダメージです』」
「俺の仕事と同じだ」
主演のアーノルド・シュワルツェネッガーが演じるのはロサンゼルスの消防士。いろいろあって単身コロンビアに乗り込んで、さまざまな活躍をするという物語だ。
「映画の中で、火事になったとき、火が壁の向こうからこちらに移るときの壁の表面温度が、確か、230度だと言っていました。『あ、俺の仕事と同じだ』と思って」
そこを超えるとコントロールがしにくくなる。その上限が設定できると、やりやすいのだと中原さんは言う。その温度を上限に、高圧の水蒸気を利用したものづくりができないかと考えるのだ。
ここで問題がひとつ持ち上がる。均一性、生産性を保ちながら、狙ったとおりの反応をさせる“反応場”をどうやって手に入れるかだ。反応場。理論を実践するには装置が必要だが、それまで実験室で殺菌のために使ってきた機械では130度くらいが限界で、200度には及ばないのだ。
ヒントは映画館ではなく、食品とは関係のない機器の展示会で見つけた。そこへ出かけて行ったのは、それが元々食品用に作られていようがいなかろうが、反応場さえ作れるならばそれでいいからだ。
出合ったのは、タオルのための機械だった。
「宇和島で使われている、タオル用の糸を染色する機械があるんです。大きなボビンを縦に並べて入れて、液体を入れて加熱するんですけど、その温度が200何十度だったんです。機械を作っている会社を見つけて、液体でできるんだからスチームの方がよっぽど楽ですよねという話をして、改造してもらった機械が、HHS技術につながっています」
HHSとは、高温高圧水蒸気の略。これにより、それまでは原材料内から取り出しにくかったたとえばコクやうま味の元となる素材を、容易に取り出せるようになったという。現在この技術は、ビール『ザ・モルツ』やコーヒー『BOSS』シリーズの一部商品の製造過程で使われている。缶入りドリンクとタオルはつながっているのだ。
「今風に言ったら、これは僕なりのオープンイノベーションです。これまでにないことをしたければ、食品の外にあるものを使うのが一番いいんです」
火をつけ、幕を引く
火をつけるのが好きだと中原さんはいう。たとえば、学会であるテーマを発表した翌年に、追随するような研究発表が並ぶことに喜びを覚える。その時には自分自身は、一歩も二歩も先へ行っていて、発表会場は多くの聴衆で埋まっている。その姿勢は、一般的な研究者像とは重ならない。
「イメージされている姿の方がメジャーだと思いますし、今、僕のチームにも細やかな研究のできる頼れるメンバーがいます。たまたま私はそうじゃないですし、それでは生きていけないと思ったので、ザ・研究者ではない方向へ進みました。研究には、チームを牽引する存在も必要でしょう」
ただ、中原さんはいつでもがむしゃらに突き進み、周囲にもそれを強要するというわけではない。あえて幕を引くこと、引かせることもある。
「研究者に、それまで取り組んできたテーマを途中で手放してもらうには、理不尽でない最後を考えなくてはなりません。どうやって成仏させるかは、すごく気をつけているんです。論文を仕上げるまでは続ける、学会発表まではやるといった具合にエンドポイントを設定します。これは私の仕事です。それに、研究テーマを成仏させるのは、悪いことではありません。次のテーマを介することで、そのテーマのどこが悪かったが見えてくるからです」
大事に置いておく
その場にい続けていたら見られない視点が得られるようになる。
「そうやって次、次と経験していくうちに、どこかで戻ってくるんですよ。成仏させるということは、完全に断ち切ることではく、大事に置いておくということです」
大事に置いておくと、いつかどこかで何かとつながることがあるし、画期的な技術に発展することがある。納得の上で一度テーマを手放す行為を失敗とは呼ばない。
中原さんは久留米出身。物心ついたころから研究者になりたいと思っていた。影響を与えたのは忍者科学隊ガッチャマンの南部博士。活躍するヒーローの後ろにいる天才的科学者だ。大学は農学部に進み、学会発表もするようになって、世の中にはたくさんの研究者がいることを知る。そして教授に言われるのだ、「お前にはサントリーが向いている」と。
「あの頃はもっと学生に評判のいい会社がたくさんありました。サントリーに対しては、少なくとも僕は憧れてはいなかった。ただ、今振り返ると、言われたとおりではなく自分のスタイルでやりたがり、やんちゃな僕の性格を、教授はよく見ていたと思います」
現在はマネジメントを行う傍ら、周りの研究者の心に火をつけるような研究も引っ張っている。
「ぶれないn」を求めて
「時計って分解できますよね。分解した部品を袋に入れて揺すっても元の時計にはなりませんが、設計図があれば、それを見ながら組み立てることはできます。今、食品についてはこの設計図がない、描けない状態なんです」
経験値の高いプロのシェフとそうでない人が同じ食材を買いそろえても、できる料理の味が違うのはそのせいだという。
「でも、設計図はなくても、コントロールできるのではないかと、その可能性を信じて取り組んでいるところです。それができれば、『だからこの原料が必要だ』『目指すゴールに行きつくための可能性が最も高いのはこれだ』といったことが、わかるようになってきます。すると、おいしい理由はこうだと説明できるようになり、どんな人が調理しても同じようにおいしい料理というものが実現できるでしょう」
“おいしい”とはどういうことなのかが、今以上に気になりそうだが、中原さんの研究スタンスのひとつに、“指標化し計測できるものでなければ実現することはできない”がある。
「一般的にはn数を増やして指標化しようとしますが、実際にはn=1であっても、ぶれないnがあればいいだけのことです。指標化するときも、確実な指標を出してくれる人がいればいいと考えています。たとえばウィスキーのブレンダーは選ばれた人がやっていますよね」
反応場は重要だ。でも、場だけあっても反応は起こらない。そこにはその反応場で、期待通り、あるいはそれを超えた反応を起こすポテンシャルを持つ何か、誰かの存在が不可欠なのだ。
中原光一(なかはら・こういち)
サントリーグローバルイノベーションセンター
研究部 上席研究員
博士(農学)
<略歴>
1988年 九州大学大学院農学研究科修士課程修了
1988年 サントリー入社
1988年 基礎研究所
1992年 生物医学研究所
1996年 基礎研究所
2002年 プロセス開発設計部 課長
2004年 商品技術部 課長
2007年 飲料開発設計部 課長
2010年 技術戦略推進プロジェクトチーム 課長
2011年 価値フロンティアセンター 上席研究員
2013年 サントリーグローバルイノベーションセンター イノベーション・プラットフォーム・リーダー(上席研究員)
<その他>
2007-12年 山形大学客員教授
2013年~ 光産業創成大学院大学支援客員教授
2016年~ 東京農業大学客員教授
<実績>
1994年 博士(農学)「ウーロン茶ポリフェノールの機能性に関する研究」
2004年 化学工学会賞技術賞「高温高圧水技術を用いた新しい麦芽加工プロセスの開発」
2004年 サントリーR&D表彰制度 MVP 1号
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