ノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典氏が、その重要性を強調した「基礎研究」。しかし、それに携わる人々は「研究所の奥で日々ひたすら研究に勤しんでいる」イメージで、実像になかなか触れる機会がありません。
例えばメーカーの「商品開発」に関しても、脚光を浴びるのはヒットアイテムの商品化を手掛けた「商品企画」部門で、その基盤となった基礎研究にはなかなか光が届きません。
このコラムでは、メーカーの研究所で働く「基礎研究の人々」にお話をうかがっていきます。なぜメーカーで基礎研究をすることを選んだのか、なぜその研究テーマを選んだのか、日々どんな研究生活をしているのか、手応えや悩みは? などなど、知られざる生態に迫ります。
今回訪れたのはサントリーワールドリサーチセンター。2015年5月、京都府精華町に新しい研究開発拠点として作られた「基礎研究の館」です。
人はいつ大人になるのか。「大人料金を支払うようになったとき」「何かしら初めての経験をしたとき」「選挙権を得たとき」・・・・・・様々な答えがあるだろうが、「将来の夢を持たなくなったとき」も、いい線を行っているのではないか。もう何者かになっていて、近頃は「将来は何になりたい?」と聞かれることも、それに答えることもなくなったとき、人はすでに大人になっている。
しかし、1983年生まれの4児の父は「宇宙飛行士になりたんですよ、僕」という。
その雨はいつ降り、どれほど山に留まっていたのか
ここは京都にあるサントリーワールドリサーチセンターで、声の主の現在の職業は研究者だ。ならば彼は、フラスコやビーカーに入った液体に囲まれて毎日を過ごしているのかというと、そうではない。矢野伸二郎さんは主に山で働いている。
サントリーグローバルイノベーションセンター 水科学研究所 博士(工学) 矢野伸二郎さん(人物写真:行友重治、以下同)
「最近はちょっと回数が減りましたが、登ります。ただ、雪と台風のときは避けるようにしています。ヘルメットは必ずかぶりますし、ハチよけのごっついスプレー、アナフィラキーショックが出たときの対処に使う注射薬も、もちろん使わなくて済むのが一番いいんですけど、準備しています。でも、湧き水をみつけるとテンションが上がってしまうんですよ」
矢野さんの専門は水の循環である。このテーマには「面白そうだから」学生の頃から向き合ってきた。
「水は酸素と水素からできていますが、中には、色違いみたいな同位体というのがあって、それに注目すると、目の前で湧いている水はどこから来たのか、どういう降り方をしたのか、追いかけられるんです。ちょっと工夫すると、それまで見えていなかった水の流れが見えるようになる、それが面白いと感じました」
山に降った雨は、そこに蓄えられる。蓄えられた状態で高きから低きに流れ、どこかのタイミングで地表面に湧き、川となって海へ流れ込む。その水の一部は過程の途中で採水されて、飲料に使われる。どんな経路を通ってきたかで、含まれるミネラルの量が変わり、カルシウムが多くなったり、ナトリウムが多くなったりして、それが飲料水としての個性となる。
その水は、何年前に山に降ったものなのか、何年間くらい山に滞留していたのかは“色違い”のほか、様々な溶存成分を測れば分かる。南アルプスの天然水(2リットル)のラベルには「およそ20年以上の歳月をかけて、花崗岩の地層に磨かれ」と書かれているのは、“色違い”などを分析した結果だ。
こうして“この水はどこを通ってきたもの”“何年前のもの”のデータを集め、分布と時間の変化を追ってつなげると、水の流れが見えてくる。では、水の流れが分かると、どんなメリットがあるのか。つまり、何の役に立つのか。
何の役に立つのか。矢野さんはこの問いを、大学生の時にある先生から投げかけられていた。理学部(に相当する学類)に在籍し、そのテーマが面白いと思って研究してきた学生に対してその問いは酷な気もするが、矢野さんは真摯に考えた。
「役に立つとは、どういうことなんだろう」
その頃、大学の先輩であるサントリーの社員に出会った。リクルーターとして大学へやってきていたのだ。その先輩はたまたま、現在、矢野さんが所属する水科学研究所に所属していた。
「僕はここに就職することになる」。直感して先輩の話を聞くと、その直感は確信に変わった。修士課程1年生のときには、約束された未来への第一歩として、サントリーのインターンシップに応募した。
ところがなぜか、選ばれなかった。悔しくて仕方ないが運命の出会いを忘れられない。初恋を片思いで終わらせなくないと、サントリーを第一希望に就職活動を始めた。企業研究、自己分析を怠らず、他社の面接でも「そういうことをやりたいならサントリーへ行くといいんじゃない」と言われるほどになり、実際、サントリーの面接では「圧倒的においしいと思われるような水を提供したい」と猛アピールした。
水という資源と、とことん真摯に向き合う
圧倒的においしいと思う水。
「それはたとえば奥地で見つけてきた、完璧な配合の天然水のことなのかもしれませんが、でも、同じ水でも飲む環境や気分、気持ちによって味は違うので、絶対的なおいしさは、たぶん存在しないと思うんです。
ただ、『サントリーの水はやっぱりおいしいね』と言っていただける機会は必ずつくれると思っています。それはミネラルのバランスとか品質だけでなく、水という資源に真摯に取り組んでいる、持続的にみんなで使うにはどうしたらいいか、将来を見据えた調査や研究もしている、そういう姿勢や思いが伝わると『やっぱりおいしいね』と言っていただけるのかなと思います」
どうしてここまで水愛の深い人を、『水と生きる』サントリーはインターンに採用しなかったのか。それはさておき、水の流れが分かると、何の役に立つのか。
「どこから来るのかが分かれば、守るべき場所が分かりますし、そこでどのくらい水が浸み込むのかが分かれば、どれくらいのエリアを守らなければならないのかが分かります。そして、我々が水循環にどれくらいの影響を及ぼしているのかの評価にも繋がります。 継続してモニタリングし、十分に持続可能と言える状態を作りたいと考えています」
当たり前に周りに存在する水について、分かっていないことは実に多い。その水について、天体の森羅万象を研究する学問分野が天文学であるがごとく、やはり森羅万象を知ろうとする学問分野があり、それを水文学(すいもんがく)という。そこには、矢野さんのような研究者のほか、人文科学系、社会科学系の研究者もいる。
理学的視点と工学的視点と体の中の水流
なお、矢野さんは理学部を卒業後、サントリー在籍中に希望して工学系の大学院でも学んだ。理学部と工学部、どちらも“理系”でくくられやすい分野だが、持つ視点が違う。
「学生時代は、どこを何年かけて流れてきたのか、自然では何が起こっているかを突き詰めていくような研究室にいたこともあって理学的視点しか持てていませんでした。一方で、工学系は水をどう扱うか、制御するかを考えます」
理学的視点で水循環に及ぼす影響を察知した場合、ではどうやって影響を緩和し自然と調和する手段を講じるのか。ここで必要になるのが、工学的視点だ。
「なので、水を知って、使い方に反映させるには、理学的視点、工学的視点の両方が必要だと思っています」
両方の視点を手に入れたのは、「何の役に立つのか」という問いに答えようとしたからだろう。とはいえ理学も工学も幅が広く、個別具体的な知見については、専門家から学ぶことも多いという。地下水が豊かな所にどんな植物が生えるかを知っている植物の専門家と一緒に山を歩くと、見えていない水脈が見えるようで勉強になるそうだ。
歴史学者はある古墳から見つかった黒い米粒のようなものを「あの世で飢えないための供物」と見なしたが、別の知見を持つ人は「カブトムシの幼虫の糞」だと見抜いたという逸話があるが、それとどこか似ている。
矢野さんは、山にいないときはコンピュータの前にいることが多い。水の流れのシミュレーションを行うためだ。最近、水に関する研究が進んでいる(=これまで進まなかった)のは、コンピュータが進化したから。より実際に近い複雑なモデルを使っても、あまり時間をかけずに結果が得られるようになった。
水が流れるのは山の中だけではない。体の中も循環している。最近、矢野さんはそれもシミュレーションしようとしている。
「このテーマには、もしも大学に残ってそこで研究を続けていたら思い至らなかったと思います」
体内の水の循環は、体内のアルコールの流れにまで波及しようとしている。アルコールはいかにして脳へ影響を与えるのか。酔いはどれくらい続くのか。そんなことまで、近い将来はシミュレーションできるようになるかもしれない。
いろいろなバックグラウンドを持った研究者が多い企業内研究所だからこそ、山でのシミュレーションを体内に応用しようというアイデアが生まれる。情報交換は、近鉄の京都駅から、サントリーワールドリサーチセンターに近い新祝園までの急行内で、小声で行われることもあるそうだ。
矢野さんがサントリーの水科学研究所に入りたくて入ってから、10年が経った。企業で研究をするようになって感じたのは多様な研究者がいることに加え、「お客様と接点のある部署は、常に競合他社と戦い続けている状態」ということだ。だから、その部門は戦いに有利な武器を、研究者から引き出そうとする。
「守るだけでなく、事業に役立つ情報を提供したいという思いはあります。ただ、こちらとして使えるデータにするには観測や分析を繰り返し、再現性があるかどうかも確認したいので、そういう時間感覚の差は感じることがありますね。ただ、研究内容について、それがなぜ必要なのかとか、どんな面白いことがあるのかを、常にきちんと分かりやすい言葉で伝えるのは、研究者の仕事だと思っています」
ただ、分かりやすい説明は時として誤解を招く。説明を簡略化すると厳密さを失うからだ。とりわけ水に関しては、それを逆手にとったかのように、インチキな説明を押し通しているような商品も世間には少なくない。
「そこは日々、悩み続けています。たとえば、天然水のラベルの『およそ20年以上』。キャッチーだから使いやすいというのはよく分かりますし、僕としては研究成果が商品ラベルに載るのは嬉しいことなのですが、一言一句、何度も打ち合わせをして、思わぬ方向に行ってしまわないよう、意図しない使われ方をしないよう、細心の注意を払いました」
高3の夏、悪循環を変えた一言と矢野家八訓
真面目で、「面白い」と思った水をとことん愛し、それを自分の仕事にする強さも持っている。それでいていまだ「宇宙飛行士になりたい」という人物は、どのように育まれたのか。
矢野さんの父上は経営学の研究者。もともとは理系でメーカーに入ったが、その後、“文転”して、研究者になった。あ、研究者の息子か、なるほどねと簡単に納得したくもなるが、矢野さんは「僕の黄金時代は小学生時代だった」という。
お受験で燃え尽き、高校生の頃は緩んだ生活を送っていた。部活もせず、友達とつるんでふらふらする毎日。それまでは良かった成績も落ち、物理は面白いと思ってはいたものの、全体的には分からないから勉強がつまらなくなるという悪循環に陥った。なんとなく大学は文系学部に進んで弁護士や公認会計士といった、「カッコいい仕事」に就こうかなと思っていた。
ところが、ここでも運命の出会いがあった。高校3年生のときの担任の先生は物理担当だった。その先生に、夏、矢野さんはこう聞いてみたのだ。「今から理系用の勉強をして、受験に間に合いますか」。先生は「間に合う」と断言した。「本当か?」と思ったが、真に受けて勉強を再開した。
すると今度は、分かると面白くなるという良い循環が生まれ、ほかの教科もそうであることが分かり、先生が言ったとおりに、受験に間に合った。良い循環も出会いも大事という話だが、その先生に出会っていたのは矢野さんだけではないはずだ。矢野さんはなぜその先生の一言で、循環を良い方向へ変えられたのか。
「そうですねえ・・・・・・。あの出会いに再現性はあるのか、どうやって検証するのか、そういうことを考えてしまいますね。やっぱり再現性ってすごく大事なんですよ。シミュレーションをしても、どれくらいブレているのかは議論しないといけないので」
矢野さんの家には数年前に施行された矢野家八訓というものがある。お父上による家訓だ。
「家の中に貼ってあるんですよ。昔の僕だったら、破り捨てていたと思いますね。でも今は、研究という同じフィールドで語り合える言語を持てているので、父の言うことも理解できるようになったのかなと思います」
矢野家八訓の内容はというと、写真の通り。「『日本一を目指すな、世界一を目指せ』とか、まあ、父は全く達成していないんですけど」と矢野さんは笑うが、しかし父の教えに忠実だ。
地球の問題を宇宙目線で見通す
「でも、そういうアグレッシブな信念みたいなものは常に持っていたい。人生、一度しかないので、たくさんのものを見たいし知りたい。研究者としても、世界から認められる研究成果を出して、『サントリーにはそんな偉大な水の研究者がいるのか』と言われたいですね。
今の、世界中の水の問題はとても複雑で、簡単に解決策が見つかるものではありません。でも我々は大切な自然の恵みをいただいて商売をしている以上、水の問題には知恵を絞らなければいけないし、僕は企業の研究者という立場だからこそできることで貢献したいと思っています。今は日本で日本の水について力を入れて活動していますが、僕もこの会社もそれだけでは満足しない、ここだけがフィールドではないと思っています」
今からでも宇宙飛行士になりたいのは、「“上から目線で”地球の水を見てみたいから」。今、見えていなかった地下の水の流れを見えるようにしたいという欲求の延長線上にある思いだ。ちなみに矢野さんの次男の将来の夢も、目下のところ、宇宙飛行士だ。
民間出身の宇宙飛行士は過去に何人も誕生している。研究者ならではの理由でそれを夢見る矢野さんは募集要項をチェック済みで「条件はだいたい揃っている」そうだ。宇宙で飲む水は、矢野さんにとって圧倒的においしいに違いない。
矢野 伸二郎(やの・しんじろう)
博士(工学)
1983年 福井県生まれ
<学歴>
2001年3月 東邦大学付属東邦高等学校卒業
2005年3月 筑波大学第一学群自然学類卒業
2007年3月 筑波大学大学院生命環境科学研究科地球環境科学専攻一貫制博士課程中途退学
2015年3月 東京大学大学院工学系研究科にて博士号取得
<職歴>
2007年4月~ サントリー(現・サントリーグローバルイノベーションセンター)水科学研究所
2011年4月~ 東京大学生産技術研究所 受託研究員
2016年4月~ 慶應義塾大学先導研究センター 共同研究員
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