「いつまで経っても叱られる。それは幸せなことだ」。新刊『トヨタ物語』を読んだ張富士夫氏がそう語る真意とは。なぜ豊田喜一郎氏だけが「ジャスト・イン・タイム」という知恵にたどり着けたのか。大野耐一氏なら今のトヨタをどう見るか。『トヨタ物語』著者の野地秩嘉氏が聞く。その前編。

■重版出来!『トヨタ物語
 トヨタはなぜ強いのか――その本質に迫る巨編ノンフィクション。日経ビジネス連載「トヨタ生産方式を作った男たち」に書下ろしの新章などを加えた圧巻の408ページ、ついに刊行。早くも4刷。日経BP社刊

 張富士夫さんがトヨタ自動車に入ったのは昭和35年(1960年)。前年、日本レコード大賞がスタートしている。第一回の受賞曲は水原弘が歌った「黒い花びら」。『トヨタ物語』には張さんが同じ東大剣道部だった國松孝次さん(元警察庁長官)を誘って、豊田市の小さなスナックで酒を飲むシーンがある。

 國松さんは言った。

 「あたりは真っ暗で、ふたりでとぼとぼ歩いて行った」。

 張さんも、もちろん覚えている。

 「國松くんは、しけたスナックと言うけれど、だって、あの店しかなかったんだ」

生き方を見習った師匠

東大法学部を出て、東京で育ったのに…。どうしてトヨタへ? 他に入ろうと思った会社はなかったのですか?

:東大剣道部の先輩にすすめられたんです。剣道部の仲間でも就職は東京に残ったのが多かったですね。彼らから「張、お前は都落ちするのか」と言われましたね。

 剣道部の先輩はいろいろな会社に行っているでしょう。「俺のところに来い」というのが8社、あったんです。僕はどこがいいのか判断できなかったから、剣道部の大先輩で、ご自分で中小企業をやっていた方に聞きにいきました。

 「先輩、どこがいいでしょうか」

 すると、大先輩は「うん、僕ならトヨタだな」。それで、「じゃ、そうしますわ」って、名古屋にやってきました。

 僕が入るちょっと前の昭和28年(1953年)でしたらトヨタの生産台数はやっと1万台(1万6496台)。一方、アメリカのビッグ3は約600万台。まったく相手にならない。後ろ姿も見えないくらい大きな存在がアメリカの自動車会社だった。

その小さな会社で、張さんは大野(耐一)さん、鈴村(喜久男)さんという人生の師匠と出会うことになる。

:本を読んだ後、野地さんに手紙を出しましたね。手紙にも書いたように、大野さん、鈴村さんは今でも私の人生のお手本であり、生き方を見習った師匠です。

張富士夫(ちょう・ふじお)
1937年生まれ。60年、東京大学法学部を卒業後、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)入社。トヨタ生産方式の体系化に尽力した大野耐一氏の下、生産方式の現場への普及に奔走した。社長(99年~)、副会長(2005年)、会長(2006年~)、名誉会長(2013年~)を歴任し、現相談役。(写真提供:トヨタ)