前出の日清紡も同様。70年当時、売上高の83%は繊維だったが、その後繊維の技術を生かしたブレーキ材料を育成。今や全体の30.9%を占める基幹事業に育て上げ、総売上高は、約8倍の5237億円(2014年度)に拡大した。

日米は輸出入で問題を協議し続けてきた
●日米間の貿易問題と協議の推移
1957年 綿製品輸出自主規制 1950年代半ばから日本の安い綿製品の米国への輸出が急増。ワンダラーブラウス問題となり、57年に日本は綿製品の輸出自主規制を米国に対して実施することを余儀なくされた。
1960年 日本のテレビメーカーへのダンピング提訴 米電子工業会(EIA)が、日本のテレビメーカーにダンピング提訴を行った。日本からの米国へのテレビ輸出は1956年に始まったばかりだった。
1969年1月 鉄鋼輸出自主規制協定 米国への日欧からの鉄鋼製品輸出で、米国の鉄鋼産業が苦況に。日本は輸出自主規制協定を締結。1969年には輸出を前年比22%減らした。米国鉄鋼産業の競争力低下が背景にあった。
1968年 テレビダンピング提訴 EIAは再度、日本製のテレビに対するダンピング提訴を実施。
1969年7月 ニクソン・米大統領繊維輸出自主規制提案 リチャード・ニクソン氏は1968年の大統領選で、民主党の牙城の南部を狙い、同地域の主要産業の繊維を保護するために日本からの輸出制限を公約に掲げた。69年7月には日米経済合同委員会で日本に繊維製品の輸出自主規制を提案。
1971年7月 ニクソン・ショック 金とドルの交換を停止。1ドル360円の固定相場終焉。
1976年 米鉄鋼産業、対日ダンピング提訴 日本からの輸出に対し、米鉄鋼産業はダンピング提訴した。
1977年 カラーテレビの市場秩序維持協定締結 日米間で、カラーテレビに対して、市場秩序維持協定を締結。対米輸出台数を175万台に制限。
1980年9月 レーガン米大統領候補、自動車救済を訴え 大統領選でロナルド・レーガン氏が自動車産業救済を公約。日本製小型車の輸入制限への動きなどが進み始めた。
1984年5月 円ドル委員会本格化 日米の本質的な問題は金融だとして議論を開始。大口預金金利の自由化、外貨の円転換規制の撤廃、外国銀行の信託業務進出などを合意内容とした報告書が公表された。
1985年9月 プラザ合意 ドル高是正で主要国が協調介入。円高に転じた。
1985年 MOSS(市場重視型個別協議)開始 エレクトロニクス、通信、医薬、林産物などの日本市場へのアクセスについての障害を取り除く協議を始めた。
1986年 半導体売上高ランキングで日本勢圧勝 日本製半導体の絶頂期。半導体売上高ランキングで、上位10社中5社が日本に。
1986年9月 日米半導体協定締結 日本市場への外国製半導体市場への参入や、半導体の価格制限など厳しい要求を突きつけた。
1989年9月 日米構造協議 日米貿易不均衡の是正を目的として1989年から90年までの間、計5回開催して多国間協議を行った。
1994年 保険協議開始 貿易インバランスの改善策として保険業界も検討開始。

掃除から高効率工場を作る

 自動車の場合は「徹底した現地化で危機を打開した」とメリルリンチ証券のアナリスト、二本柳慶は言う。具体的には、80年代から90年代にかけて米国に工場を建設、そこで現場の従業員を育て上げ、競争力を高めた。

 82年に日系メーカーとしてはいち早く、米オハイオ州に自動車工場を建設したホンダは、現場作業員に整理整頓から教え始めた。現場を清潔に保つことで製品の品質を上げるのはもちろん、部品や工具を正しい位置に置くことで作業効率も向上できるからだ。

 いわば製造業の基本だが、業務の分業が徹底している米国では長く受け入れられなかった。それでも地道に指導し、説き続けることで日本同様の効率の高い工場を作り上げたという。

 繊維業界は新市場を創造した。自動車産業は現地化を進めた。これに対し半導体業界はいずれもが欠けていた。

 日本メーカーは、DRAMで86年には世界市場の78%のシェアを取り、世界トップに立った。しかし米国への集中的な輸出と、日本市場に外国製半導体が入りにくい閉鎖性があるとして米国メーカーが強く反発して摩擦化。日本が世界一となった86年に日米半導体協定が結ばれると、シェアは急激に落ちていった。